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絵画論

レオナルド・ダ・ヴィンチ (1452–1519) · 機械翻訳(底本は1802年の英語訳) · 全365章 · 図版49点 · 底本はパブリックドメイン · プレーンテキスト

若い画家へのレオナルドの助言です。学び方、光と影、色彩と距離、動く人物、衣のひだ、風景の見方を語っています。章番号と図版は1802年の英語版と同じです。

比例

第1章 若い学徒がまず最初に学ぶべきこと

若い学徒は、まず第一に遠近法の知識を身につけ、あらゆる物にそれぞれ正しい寸法を与えられるようにならなければならない。その後は、有能な師のもとに身を置き、各部分を描くよい手法に少しずつ慣れていく必要がある。次に自然を研究し、学んだ教えの道理を心に確かめ、定着させなければならない。さらに、さまざまな古の巨匠たちの作品を見ることにもいくらかの時を費やし、目と判断力を養って、教えられたことのすべてを実地に生かせるようにすべきである。

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第2章 若い学徒のための規則

視覚という器官は最も敏捷なものの一つであり、ひと目で無限に多様な形をとらえる。にもかかわらず、一度に完全に理解できるのは一つの対象だけである。たとえば読者は、このページをひと目見て、そこにさまざまな文字が満ちていることをただちに認める。しかし同じ瞬間に一字一字を見分けることはできず、ましてその意味を理解することはできない。これらの文字について正しい理解を得ようと望むなら、一語ずつ、一行ずつ読み進めなければならない。同じように、建物の頂上に登ろうとするなら、一段ずつ進むことに甘んじなければならず、さもなければ決して頂上には達しないであろう。

この術の研究に生来の傾きをもつ若者には、次のようにせよと私は勧めたい。物の形について真の理解を得るためには、それを構成する諸部分の研究から始めなければならず、第一の部分を十分に記憶に蓄え、十分に練習するまでは第二の部分へ移ってはならない。さもなければ時を失い、学業を長引かせることは間違いない。そして、速さを試みる前にまず正確さを身につけることを忘れてはならない。

第3章 若者の絵画への素質を見抜く方法

素描を学ぶことを強く望み、それを大いに好みながら、その実ふさわしい素質を欠く者は多い。それは彼らの根気のなさによって知ることができる。あたかも子どものように、何もかも急いで描き、仕上げることも影をつけることもしないのである。

第4章 絵画とその区分について

絵画は二つの主要な部分に分けられる。第一は形、すなわち物体とその構成部分の形を区別する線である。第二は、その限界の内に収められた色彩である。

第5章 形の区分

物体の形は二つの部分に分けられる。すなわち、全体に呼応すべき四肢相互の比例と、生きた人物の心の内に起こることを表す運動である。

第6章 四肢の比例

四肢の比例はさらに二つの部分、すなわち均等と運動とに分けられる。均等とは(全体に呼応する寸法のことのほかに)、若者の四肢を老人のそれと混同せず、ふくよかな四肢を痩せたそれと混同しないことであり、さらに、男の頑健で引き締まった筋肉に女性の柔らかさを混ぜ合わせないことである。また、老年の姿勢や運動を青年の敏捷さと活発さで表してはならず、女性の人物のそれを壮健な若者のように表してもならない。強い男の運動と四肢は、その完全な健康状態を表すようなものでなければならない。

第7章 寸法一般について

人体の寸法は、一般に、幅においてではなく長さにおいて考えるべきである。なぜなら、われわれが模倣しようと努める自然の驚くべき作品においては、どの種においても、一つの個体のある部分が他の個体の同じ部分と寸分違わず同じであることは見いだせないからである。それゆえ形の変化に注意を払い、短い胴に長い脚をつけたり、狭い胸に長い腕をつけたりするような、比例の奇形をすべて避けよう。また関節の寸法にも注意深く目を向けよ。自然はここで大いに変化を見せるものであり、その範にならって同じようにせよ。

第9章 子どもと成人の比例の違い

大人と子どもでは、骨の長さにおいて、関節の間に大きな違いがあることを私は見いだす。大人は、片方の肩の端からもう一方の肩の端までが頭二つ分の長さであり、肩から肘まで、肘から指先までも同様である。ところが子どもではそれが頭一つ分しかない。自然は、まず知性の座に適切な大きさを与え、その後で他の部分にそれを与えるからである。

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第10章 幼児期から成年に至る人体の比例の変化

人は幼児期には、肩幅が顔の長さに等しく、また腕を曲げたときの肩から肘までの長さにも等しい。下腹部から膝まで、膝から足までも同じである。しかし、成長しきった時期に達すると、これらの寸法はいずれも長さが二倍となる。ただし顔だけは例外で、頭頂を含めても長さはごくわずかしか変わらない。それゆえ、均整がとれ成長しきった人の身長は顔の長さの十倍であり、肩幅は顔二つ分となり、上に挙げた他の長さも同様にすべて二倍となる。その他のことは、人体の全般的な計測のところで説明する。

第11章 四肢の比例について

いかなる動物であれ、そのすべての部分は全体に呼応していなければならない。すなわち、胴が短く太ければ、それに属する四肢もすべて同様でなければならない。長く細いものは同じ性質の部分をもたねばならず、中くらいの大きさのものについても同様である。人や嵐に損なわれていない植物にも、似たことが認められる。損なわれた植物は再び芽吹いて成長し、老木から若い枝を伸ばし、そのために本来の均整を失うからである。

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第13章 四肢の比例について

諸部分の比例を自分自身の身体で測り、欠点が見つかれば書き留めて、自分の構図を描くときにそれを避けるよう十分に注意せよ。自分自身を模倣して喜ぶことは、画家に共通の欠点とされているからである。

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第14章 諸部分の比例と美について誤った判断を下す危険

画家の手が不格好であれば、彼はそれを作品に持ち込みがちであり、本来あるべきほど美しくない自分の身体の他の部分についても同様である。それゆえ画家は、そうした自己愛、すなわち自分の姿をよく思いすぎることに特に警戒しなければならない。そして、あらゆる手段を尽くして、何が最も美しいかと、自らの欠点が何であるかを知り、前者を取り入れ後者を避けるよう学ばなければならない。

第15章 もう一つの教え

若い画家は、まず最初に、よい師たちの素描を模写することに手を慣らさなければならない。そうして手ができあがり、自在に動くようになったら、指導者の助言を受けながら、浮き彫りからの素描にも慣れるべきである。その方法は、浮き彫りからの素描に関する論述で示す規則に従う。

第16章 浮き彫りからの素描の方法と、それに適した紙の準備

浮き彫りから素描するときは、紙をやや暗い半調の色に染めておけ。輪郭線を引いたら最も暗い影を入れ、最後に主要な光を入れるが、控えめにせよ。特に小さな光は控えめにすること。それらはごくほどほどの距離でも、たやすく目に見えなくなるからである。

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第19章 自然からの素描について

自然から素描するときは、対象の高さの三倍の距離を取らなければならない。そして描き始めるときには、心の中にある主要な線(たとえば垂線)を定め、諸部分がその線に対してどのような位置関係にあるか、すなわち交わるか、平行か、斜めかをよく観察せよ。

第20章 アカデミーの人物の素描について

裸体のモデルから素描するときは、常に人物の全体を下描きし、すべての四肢を互いによく釣り合わせよ。そして、最もよく見える部分だけを仕上げるとしても、残りの部分にも配慮せよ。そうすれば、こうした習作を用いるときに、すべての部分がまとまるであろう。

姿勢を組み立てるときは、頭を胸と同じ側に向けないよう注意し、腕を脚と同じ線上に置かないようにせよ。頭が右肩のほうへ向くなら、左側の諸部分は他方より低くなければならない。しかし胸が前へ出て頭が左へ向くなら、右側の諸部分が最も高くなる。

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第21章 暗闇の中で、朝目覚めたときと就寝前に学ぶことについて

暗闇の中で床にあるとき、以前に研究した形の輪郭線、特に理解し記憶にとどめることが最も難しいと思われたものを心の中でたどることによって、私は少なからぬ益を得てきた。この方法によって、それらは確かなものとなり、記憶のうちに蓄えられるであろう。

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第22章 肖像の素描に関する観察

顔の中央で鼻を持ち上げている軟骨には、八通りの変化がある。一様にまっすぐ、一様に凹、あるいは一様に凸であるもの、これが第一の種類である。第二は、不均等にまっすぐ、凹、あるいは凸であるもの。第三は、上部がまっすぐで下部が凹のもの。第四は、やはり上部がまっすぐで下部が凸のもの。第五は、凹で、その下がまっすぐなもの。第六は、上が凹で下が凸のもの。第七は、上部が凸で下部がまっすぐなもの。そして第八にして最後は、上が凸で下が凹のものである。

鼻と眉のつながり方には、まっすぐなものと凹のものとの二通りがある。額には三つの異なる形がある。まっすぐなもの、凹のもの、丸いものである。第一のものはさらに二つに分かれる。すなわち上部あるいは下部が凸のもの(ときには両方)と、上下とも平らなものである。

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第23章 人の顔立ちを記憶にとどめ、一度見ただけでその横顔を描く方法

横顔の四つの主要な特徴、すなわち鼻、口、顎、額の変化をよく観察し、記憶しなければならない。まず鼻について言えば、まっすぐなもの、凹のもの、凸のものの三種類がある。まっすぐなものには四つの変化しかなく、短いか長いか、先端が高いか低いかである。凹の鼻には三種類あり、上部に凹みがあるもの、中央にあるもの、先端にあるものがある。凸の鼻もまた三通りに変わり、上部が突き出るもの、中央が突き出るもの、下部が突き出るものがある。無限の多様性を喜ぶかに見える自然は、中央が突き出た鼻にさらに三つの変化を与える。その突起がまっすぐなもの、凹のもの、凸のものである。

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第24章 顔の形を記憶する方法

顔の全体の様子をたやすく記憶にとどめたいと望むなら、まず、いくつもの顔、口、目、鼻、顎、喉、首、肩、要するに人と人とを区別するあらゆる主要な部分を上手に描くことを学ばなければならない。たとえば鼻にはさまざまな種類がある。まっすぐなもの、瘤のあるもの、凹のもの、中央より上が高いもの、中央より下が高いもの、鷲鼻、平たいもの、丸いもの、尖ったものである。これらは横顔にかかわるものである。正面から見ると十一の異なる種類がある。一様なもの、中央が太いもの、中央が細いもの、先端が太いもの、付け根が細いもの、先端が細いもの、付け根が太いもの。鼻孔には幅の広いもの、狭いもの、高いもの、低いものがあり、開口の大きいものも、先端に向かってより閉じているものもある。

顔の他の部分にも同じ多様性が見いだされるのであり、それらは自然から描き、記憶にとどめておかなければならない。あるいは、記憶によって似姿を描こうとするときは、こうした顔立ちの変化をすべて書き記した手帳を携えよ。描こうとする顔をひと目見たら、少し脇へ退いて、その顔に似た特徴がどれであるかを手帳に書き留めよ。そうすれば、家に帰ってからすべてを組み立てることができる。

第25章 画家はあらゆる人の意見を喜んで受けるべきこと

画家は、誰の意見であれ耳を傾けることを拒むべきではない。というのも、画家でない者であっても、人の形について正しい考えをもつことがあるのは周知のことだからである。背中に瘤があるか、脚が太いか、手が大きいか、足が不自由か、その他の欠陥があるか、といったことである。人々が自然の作品を判断できることをわれわれが知っているのなら、われわれの誤りを見つけることなど、なおさらできると考えるべきではなかろうか。

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解剖学

第28章 万能であることについて

自らの術の原理によく通じた者にとって、その実践において万能となることはたやすいことである。すべての動物は四肢、すなわち筋肉、腱、骨などにおいて似通っているからである。それらは解剖学で論証されるように、長さや太さが異なるだけである。水生動物については、その種類はきわめて多いが、われわれの目的とは関係がないので、画家にこれを規範とするよう勧めはしない。

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第29章 画家への教え

頭部、アカデミーの人物、衣文、動物、風景など、ただ一つのものだけを上手に描くことができ、何か特定の対象の研究に自らを限るのは、画家にとってさほどの名誉ではない。なぜなら、一つの分野の研究に熱心に打ち込み、それを絶えず練習するならば、成功しないほど才能を欠く者はまずいないからである。

第30章 人体の寸法と四肢の屈曲について

第30章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

画家は、肉を支え、肉に覆われている骨についての知識をもつことが非常に必要である。しかし特に必要なのは関節の知識であり、関節は四肢の見かけの長さを増減させる。腕がその例で、曲げたときと伸ばしたときとでは寸法が同じではなく、最大に伸ばしたときと曲げたときの差は、その長さのおよそ八分の一である。腕の長さの増減は、肘のところで骨が受け口から突き出ることによって生じる。図版Iの図ABに見られるように、それは肩から肘までが長くなるのであり、そのときできる角は直角より小さい。その角が鋭くなるにつれて腕は長く見え、角が開いて鈍くなるのに応じて短くなる。

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第31章 人体のいくつかの関節にある小さな骨について

人体の関節には、いくつかの関節を結ぶ腱の中央に固定された小さな骨がある。膝の膝蓋骨、肩の関節、足の関節にあるものがそれである。その数は八つで、両肩に一つずつ、両膝に一つずつ、両足には親指の第一関節の下、踵寄りに二つずつある。これらは年を取るにつれてきわめて硬くなる。

第32章 画家が守るべき覚え書き

どの四肢の運動によってどの筋肉と腱が働くか、またそれらがいつ隠れるかを書き留めよ。これらの所見は、解剖学と筋肉の学を研究すると公言する画家や彫刻家にとって、最も重要なものであることを忘れてはならない。子どもについても同じようにし、誕生から老衰に至るまでの年齢のさまざまな段階をたどり、四肢、特に関節が受ける変化を記述し、どれが太り、どれが痩せるかを記せ。

第34章 子どもと成人の関節の違い

幼い子どもはどの関節も小さいが、関節と関節の間は太くふくよかである。関節の骨の上には、骨どうしを結びつけるいくらかの腱のほかに何もないからである。水分に富む柔らかな肉は、関節の間の部分で皮膚の下に包み込まれている。そして骨は関節のところで、その間の部分よりも太いため、皮膚は成人へと成長する過程でその余分を脱ぎ捨て、骨に近づいて、その部分全体を細くしていく。しかし関節の上では、軟骨と腱しかないので皮膚が減ることはない。こうした理由で、子どもは関節が小さく、その間がふくよかなのであり、それは指や腕や狭い肩に認められる。反対に大人は、腕や脚の関節が大きく太い。そして子どもに凹みのあるところに、大人は節くれ立って突き出た部分をもつのである。

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第35章 指の関節について

指の関節は、曲げるとあらゆる側で大きく見え、曲げれば曲げるほど大きく見える。まっすぐにしているときはその反対である。足の指でも同じであり、それは肉づきに応じて、いっそうはっきりと認められる。

第36章 手首の関節について

手首、すなわち手と腕の間の関節は、手を閉じると小さくなり、開くと大きくなる。肘と手の間の腕では、あらゆる側でその反対のことが起こる。手を開くと、肘から手首にかけての腕の筋肉は伸びて細くなり、手を閉じると同じ筋肉が膨らんで短くなるからである。手を握り締めることで引っぱられて浮き上がるのは、腱だけである。

第37章 足の関節について

足の関節の増減は、図版IのD E Fのように腱の見える側で生じ、角が鋭くなると増し、鈍くなると減る。これは足の前部A B Cの関節のことと理解されたい。

第38章 膝について

曲がる関節をもつすべての部位のうちで、曲げると小さくなり、伸ばすと大きくなるのは膝だけである。

第40章 裸体について

人物を敏捷で繊細に見せようとするなら、筋肉をあまりはっきり示しすぎてはならず、どの筋肉も大きく膨らませてはならない。そのような人物は活動性と素早さを表すものであり、骨の上に多くの肉を載せてはいないからである。肉が少ないからこそ軽いのであり、肉がわずかしかないところに筋肉の厚みがあるはずはない。

関連する箇所(英語のページ):

第41章 筋肉の太さについて

筋肉質の人は骨が太く、一般にがっしりとして背が低く、脂肪はごくわずかである。肉づきのよい筋肉は成長するにつれて互いに密着し合い、他の場合なら筋肉の間に宿る脂肪の入る余地がなくなるからである。こうした脂肪の少ない人の筋肉は、伸びることができないので太さを増し、特にその中央、すなわち両端から最も離れた部分で太くなる。

第42章 肥満した人の筋肉は小さいこと

肥満した人は、しばしば背が低く太いという点で筋肉質の人と共通しているが、その筋肉は細い。ただし彼らの皮膚の内には、空気に満ちた海綿状の柔らかな肉が多く含まれている。それゆえ彼らは水の上で軽く、筋肉質の人よりも上手に泳ぐのである。

第43章 身体のさまざまな運動においてどの筋肉が見えなくなるか

腕を上げ下げすると、胸の筋肉は見えなくなるか、あるいはいっそう大きく盛り上がる。腰が内側または外側に曲がるときにも、同様の効果が生じる。注意すべきは、肩、腰、首には他のどの関節よりも見え方の変化が多いことであり、それはこれらが最も多様な運動をなしうるからである。しかしこの主題については別に論述を設けることにする。

関連する箇所(英語のページ):

第44章 筋肉について

筋肉は、どこまでも細かく描き出すべきではない。そうすれば見た目に不快であり、また描くことも非常に難しくなるからである。ただ四肢が動いている側だけ、より強く示すべきである。働いている筋肉は力を増すために自然にその全部分を一つに集めるので、それまで見えなかった筋肉の小さな部分がいくつか現れてくるからである。

第45章 筋肉について

若者の筋肉は、強く示してはならず、膨らませすぎてもならない。そうすれば彼らがまだ達していない、年齢の盛りの力と活力を示すことになるからである。とはいえ、用いられる度合いに応じて、多かれ少なかれ表現しなければならない。動いている筋肉は、休んでいる筋肉より常に膨らんで太いからである。曲げられた四肢の内部の中心線は、その本来の長さを決して保たない。

第46章 筋肉の伸長と収縮

人体のうちで、伸長と収縮において最も多くの変化を示すのは、大腿の後ろの筋肉である。その点で第二に来るのは臀部をなす筋肉、第三は背中の筋肉、第四は首の筋肉、第五は肩の筋肉、そして第六は腹の筋肉である。腹の筋肉は胸の下に始まり下腹部の下で終わる。それぞれを論じるときに説明しよう。

第47章 胸と下腹部の間の筋肉について

胸の下の胸骨に始まり、下腹部の下の恥骨に付着して終わる筋肉がある。これは腹直筋と呼ばれ、横に走る腱の切れ目、すなわち靭帯によって、縦に三つの主要な部分に分かれている。すなわち、上の部分と一つの靭帯、第二の部分とその靭帯、第三の部分と第三の靭帯であり、最後のものは腱によって恥骨に結びつく。同じ筋肉のこうした区分と切れ目は、身体を曲げたり伸ばしたりするときの運動を容易にするために、自然が設けたものである。もし一続きのものであれば、伸びたり縮んだりするときの変化が大きくなりすぎ、またはるかに弱くもなるであろう。この筋肉は、身体の運動においてほとんど変化を示さないときに、より美しい。

第48章 人の複合した力について、まず腕について

腕を伸ばしたり曲げたりする筋肉は、肩甲骨のさまざまな突起から起こり、一部は上腕骨の隆起から、他は上腕骨の中ほどから起こる。腕の伸筋は後ろから、屈筋は前から起こる。

人が押すより引くほうに大きな力をもつことは、『重量について』の第九命題によって証明されている。そこには、等しい二つの重りのうち、天秤の支点すなわち中心から遠く離れたもののほうが大きな力をもつとある。したがって当然の帰結として、図版IIの筋肉N Bと筋肉N Cは等しい力をもつとしても、内側の筋肉N Cは外側の筋肉N Bより強い。なぜならN CはCで腕に付着しており、この点は肘の中心Aから、その中心の反対側にあるBよりも遠いからである。かくしてこの問題は決着する。しかしこれは単純な力であり、私が今から述べねばならない筋肉の複合した力に触れる前に、これを説明しておくのがよいと考えた。複合した力、すなわち複合した強さとは、たとえば次のようなものである。腕が働こうとするとき、それに第二の力が加わる(引くときや押すときの、身体の重さや脚の力など)。これは諸部分を伸ばすことから成るのであり、二人の男が円柱を倒そうとして、一人は押し、一人は引く場合がこれにあたる。

第49章 押すことと引くことの二つの動作のうち、人はどちらに最大の力をもつか(図版II)

第49章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

人は引くときに最大の力をもつ。その動作では腕のすべての筋肉が一体となって力を発揮するのに対し、押すときにはその一部が働かないに違いないからである。押すために腕を伸ばすと、肘を動かす筋肉は働くことができず、それは倒そうとする円柱に肩を当てて押す場合と同じである。この場合には背中を伸ばす筋肉、大腿の下の脚の筋肉、ふくらはぎの筋肉だけが働くことになる。そこから次のように結論できる。引くときには伸長の力に加えて、腕の力、脚の力、背中の力、さらに身体の斜めの動きがそれを求めるなら胸の力までが加わる。しかし押すときには、すべての部分が用いられたとしても、腕の筋肉の力が欠けている。動きのない伸ばした腕で押すことは、肩から倒そうとする円柱まで一本の木片を渡す以上の助けにはならないからである。

第50章 四肢の屈曲と、曲がる関節のまわりの肉について

関節の近くや関節の上で骨を覆う肉は、関節の屈曲と伸長に応じて厚みを増したり減じたりする。すなわち、屈曲によってできる角の内側では増し、外角の外側では細く伸びる。凸の角と凹の角の中間は、この増減にあずかるが、その程度は諸部分が曲がる関節の角に近いか遠いかによって大きくも小さくもなる。

第52章 筋肉をもたない靭帯について

腕が手につながるところに、人体で最大の靭帯があり、筋肉をもたず、手根の強靭帯と呼ばれている。それは四角い形をしており、腕の骨と指の腱とを緊密に結びつけてとどめ、それらが広がったり飛び出したりするのを防ぐ役をしている。

第54章 背中の後ろで一方の腕をどこまで他方の腕に近づけられるか(図版III、IV)

腕を背中の後ろに回したとき、両肘は肘から中指の先までの長さより近づけることは決してできない。したがって指は肘の向こうに見えることはなく、その状態で両腕は肩とともに完全な正方形をなす。胸の前で腕を最も遠くまで伸ばすと、肘はみぞおちの上に来る。この姿勢では、肘と肩は正三角形をなす。

第55章 筋肉について

第55章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
第55章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

すべての筋肉がはっきり見えるように強く示された裸体は、どのような運動も表さない。ある筋肉が引くとき他の筋肉が弛まなければ、動くことはできないからである。弛む筋肉は、他の筋肉が強く引いて現れるのに応じて、見えなくなっていく。

関連する箇所(英語のページ):

第56章 筋肉について

人体の筋肉は、その動作の度合いに応じて、多かれ少なかれ示さなければならない。働いている筋肉だけを見せるべきであり、力強く働いていればいるほど、強く示すべきである。まったく働いていない筋肉は、柔らかく平らなままにしておかなければならない。

第59章 解剖学の知識の必要性

腱と筋肉の性質、およびそれらを最も多く含む部分について完全な知識を得た画家は、身体のどの部分かに特定の運動を与えるときに、どの筋肉がいくつ、その運動を起こし、それに寄与するかを確実に知るであろう。またどの筋肉が膨らむことで短くなり、どの軟骨を取り巻いているかを知るであろう。

そのような画家は、自分の採用し考案するさまざまな姿勢のすべてにおいて、腕や背中や胸、その他の部分に同じ筋肉を用いる者たちを真似ることはないであろう。

人物の運動と釣り合い

第61章 釣り合いの喪失によって生じる運動

第61章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

運動は、しかるべき釣り合いの喪失、すなわち重さの不均等によって生じる。何ものも重心を失うことなしに自ら動くことはできず、重心が遠く離れるほど、運動は速く強くなるからである。

第62章 身体の釣り合いについて(図版V)

人体の諸部分の釣り合いには、単純なものと複合したものの二種類がある。単純な釣り合いとは、人が動かずに足で立っているときのものである。この状態で、身体の中央から異なる距離に両腕を伸ばしたり、身をかがめたりしても、重さの中心は常に、身体を支える足の中心の上の垂直線上にある。また両足に等しく体重をかけているなら、胸の中央は、両足の中心間の距離を測る線の中央の真上にある。

複合した釣り合いとは、人が自分のものではない重さを担い、それをさまざまな運動によって支えるときのものである。アンタイオスを地面から持ち上げ、両腕で胸に押しつけて窒息させるヘラクレスの像がその例である。ヘラクレスは、アンタイオスの重さが前に加える分だけ、自らの重さを両足の中心線より後ろに移さなければならない。

関連する箇所(英語のページ):

第63章 姿勢について

両鎖骨の間にある首のくぼみは、身体の重さを支える足の真上に垂直に落ちる。片腕が前へ投げ出されれば、このくぼみはその垂線を離れる。片脚が後ろへ下がれば、このくぼみは前へ出る。こうして姿勢が変わるたびに、その位置を変えるのである。

関連する箇所(英語のページ):

第64章 身体の重心のまわりに重さを釣り合わせることについて

動かずに足で立っている人物は、支えの中心のまわりにすべての四肢の釣り合いをつくる。

動かずに足で立っているこの人物が、片腕を前へ動かしたとすれば、伸ばした腕と付加された重さに等しいだけの重さを、必ず反対の側に移さなければならない。通常の釣り合いの外へ出されるすべての部分についても、同じことを言おう。

第68章 人と動物の重心について

人と動物の脚、すなわち支えの中心は、運動が遅いほど重心に近づく。反対に運動が速いほど、その垂線から遠く離れる。

第70章 動物の運動について

すべての二足の動物は、運動するとき、上げられた足のすぐ上の部分を、地面についている足の上の部分よりも低くし、最も高い部分はちょうどその反対となる。これは人が歩くときの腰と肩に認められ、また鳥では頭と尻に認められる。

第71章 四足動物とその運動について

四足動物の最も高い部分は、歩くときには静止しているときより多くの変化を受け、その度合いはその動物の大きさに応じて大小がある。これは、脚が地面につくときに斜めの位置にあることから生じ、その脚がまっすぐになって地面に垂直になるとき、動物の身体を持ち上げるのである。

第73章 動物の運動について

第73章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

最も前のめりになっている人物が、走りにおいて最も速く見える。

自ら動く物体は、その重心が支えの中心から離れる度合いに応じて、速くも遅くも動く。これは主として鳥の運動に関して述べるものであり、鳥は羽ばたきもせず風の助けも借りずに自ら動く。それは重心が支えの中心の外へ、すなわち両翼の間の中央という通常の位置の外へ出るときに起こる。翼の中央が全体の重さの中心より後ろにあれば、鳥は前へ下へと動き、その度合いは重さの中心が翼の中央から離れる度合いに応じて大小がある。そこから次のことが導かれる。重心がもう一方の中心から遠く離れていれば、鳥の降下は非常に斜めとなる。しかし重心が翼の中央に近ければ、降下の斜めの度合いはごく小さい。

関連する箇所(英語のページ):

第75章 足で立つ人物の釣り合いについて

足で立っている人は、身体の重さを両足に等しくかけているか、不等にかけているかのいずれかである。等しくかけている場合、付加された重さを伴うか、自分の重さだけかである。付加された重さがあるときは、四肢の相対する両端は、足の垂線から等しい距離にはない。しかし単に自分の重さだけを担っているときは、相対する両端は足の垂線から等しい距離にある。この重力の主題については、別に一書を著すことにする。

第76章 教え

臍は常に、みぞおちを通って首のくぼみに至る身体の中心線上にあり、人の身体の一方の側と他方の側に、付加されたものであれ本来のものであれ、同じだけの重さがなければならない。これは腕を伸ばすことによって示される。その手首は棹秤の端の重りの役目を果たし、手首の重さと釣り合わせるために、臍の反対側にいくらかの重さを移すことが必要となる。踵がしばしば持ち上げられるのは、そのためである。

第77章 立っているが、片足により多くかかっている人について

人は長く立っていて、体重をかけている脚が疲れると、重さの一部をもう一方の脚に移す。しかしこの種の姿勢は、老年、幼年、あるいは極度の倦怠にのみ用いるべきである。それは疲労、あるいは手足の力のごく乏しいことを表すからである。それゆえ強く健康な若者は常に片脚で立ち、もう一方の脚に少し重さを移すとしても、それは運動に必要な準備にすぎない。先に証明したように、運動は不均等から生じるのであって、それなしには動くことができないのである。

第78章 人物の釣り合いについて(図版IX)

第78章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
第78章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

人物が片足で立つなら、その側の肩は常に他方より低く、首のくぼみは身体を支える脚の中央の真上に垂直に落ちる。その人物をどの方向から見ても同じであり、それは腕を大きく伸ばしておらず、背中や手や肩に重いものを持たず、身体を支えていない脚を後ろにも前にも投げ出していないときのことである。

第80章 肩に重いものを担う人について(図版X)

重いものを担う肩は、常にもう一方の肩より高い。これは向かいの図の人物に見られるとおりで、その中心線は全身を貫いて、身体を支えている脚にまで達し、その両側に等しい重さがある。もし重さがこの重力の中心線の両側に等しく分けられていなければ、全体は地面に倒れてしまうであろう。しかし自然は、一方の側に付加された重さと同じだけの人の本来の重さが他方の側に移されて、釣り合いをつくるよう備えている。これは荷を負っていない側へ身体を曲げて傾けることによって行われ、担っている付加の重さとの平衡をつくるのである。そしてこれは、荷を負った肩を上げ、他方を下げなければ行うことができない。これが、こうした場合に自然が人に授けた手立てである。

第81章 平衡について

中心線の外に付加の重さを負う人物は、その線のまわりに釣り合いをつくるのに足りるだけの本来の重さあるいは付加の重さを、反対の側に移さなければならない。その線は首のくぼみから重さの全塊を貫いて、地面についた足の部分に至るものである。人が片腕で重いものを持ち上げるとき、自然に反対側の腕を突き出すことをわれわれは観察する。それでも釣り合いをつくるのに足りなければ、身体を曲げて、その付加の荷に抗するのに足りるだけ自らの重さを加えるであろう。また、横と後ろへ同時に倒れそうになった人が、常に反対側の腕を突き出すのも見られるところである。

第82章 運動について

人が速く動くにせよ遅く動くにせよ、重さを支えている脚の上の諸部分は、常に反対側の諸部分より低い。

第83章 肩の水平

第83章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
第83章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
第83章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

人であれ他の動物であれ、肩あるいは胴の両側は、運動が遅いほど水平を保つことが少ない。逆に、運動が速いほどそれらの部分は水平を失うことが少ない。これは位置の運動を論じた第九命題によって証明される。そこには、いかなる重さもその運動の線の方向に押すとある。したがって全体がある一点へ向かって動くとき、それに属する諸部分は全体の運動の最短の線に従い、全体の側方の諸部分に自らの重さを少しも与えないのである。

第84章 上記への反論に答える(図版XI、XII)

上の命題の前半について、次のような反論がなされてきた。静止しているか、ゆっくり動いている人が、四肢を常に重心の上で完全に釣り合わせているとは限らない。自然が常にその規則に従っているとは認められず、それどころか、人物は片足で立ちながら横に曲がることがあり、また図B Cに見られるように、膝を曲げた脚に重さの一部をかけて休むことがある、というのである。しかし私は次のように答えよう。図Cの人物において肩が行わないことは腰が行うのであり、それは別の箇所で論証するとおりである。

第85章 人物の位置について(図版XIII)

裸体のD Aと記した部分が、その姿勢のために肩から腰にかけて高さを減じるのと同じ割合で、反対の側は増す。その理由はこうである。人物が一方の足(たとえば左足)で立つと、その足が上にあるすべての重さの中心となる。そして二つの鎖骨の接合によってできる首のくぼみもまた、(身体の中央の表面を通る)垂線の上端という本来の位置を離れて、同じ足の上へ傾く。この線がそれとともに傾くので、常に直角をなす横の線は、A B Cに見られるように、足のついている側の端を下げざるをえない。臍と中央の諸部分は、常に本来の高さを保つ。

関連する箇所(英語のページ):

第86章 関節について

関節の屈曲においては、それがとる形の違いと多様性を観察することが特に有益である。筋肉が一方の側で膨らむ一方、他方の側で平らになるさまである。これは首において最も明らかである。首の運動は三種類あり、そのうち二つは単純な運動で、もう一つは他の二つにもあずかる複合した運動である。

単純な運動とは、第一に、首が右か左の肩のほうへ曲がるとき、および頭を上げ下げするときである。第二は、上げも曲げもせず、まっすぐなまま右か左へねじり、頭を一方の肩のほうへ向けるときである。複合と呼ばれる第三の運動は、曲げにねじりが加わるときであり、耳が一方の肩のほうへ傾き、頭が同じ方向へ向き、顔が上を向くときがこれにあたる。

第87章 肩について

第87章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

肩の行いうる運動のうち、主なものは単純な運動であり、腕を上下、前後に動かすことなどである。もっとも、これらの運動は無限と呼んでもよいほどである。腕が壁に円を描くことができるなら、肩に属するすべての運動を行ったことになるからである。あらゆる連続量は無限に分割でき、この円は、腕が円周のすべての部分を通る運動によって生まれる連続量である。したがって肩の運動もまた無限であると言ってよいことになる。

関連する箇所(英語のページ):

第88章 人の運動について

人が重いものを動かすさまを表そうとするときは、その運動がさまざまであることを考えよ。すなわち、身をかがめて地面から重いものを持ち上げる単純な運動の場合もあれば、重いものを後ろに引きずる場合、前へ押す場合、滑車に通した綱で引き下ろす場合もある。注意すべきは、人の身体の重さは、重心が支えの中心から離れるのに応じて、より強く引くということである。これに、曲げられた脚と背中が本来のまっすぐな状態に戻ろうとする努力の力が加わる。

人は上るにも下るにも、どの方向へ歩くにも、後ろの足の踵を上げずにはいられない。

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第90章 ものを激しく投げることについて(図版XV)

投げ槍、石、その他のものを激しく投げる人を表すには、主に二つの異なる方法がある。すなわち投げようと準備しているところか、すでに動作を終えたところかである。準備の動作にある人物を描こうとするなら、体重のかかる足の内側が首のくぼみからの垂線の下に来る。そしてそれが右足であれば、左肩は同じ足の爪先の真上に来る。

第92章 力強い運動について(図版XVI)

第92章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
第92章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

二本の腕のうち、本来の位置から最も遠くへ離れていて、目指す場所へ運ばれるのに他の部分から最も強く助けられるほうの腕が、最も力強い働きをする。棍棒Eを持つ腕を動かし、全身の運動に助けられてそれを反対の側Bへ運ぶ男Aのごとくである。

関連する箇所(英語のページ):

第93章 跳躍の動作

跳ぼうとする人の心に何の思案がなくとも、自然はおのずから彼を促して、不意の動きで腕と肩を身体の大部分とともに上げさせ、努力の力が尽きるまで高く持ち上げさせる。この激しい運動には、背中、大腿の関節、膝、足に沿って、ばねや弓のように曲げられていた身体の瞬時の伸長が伴い、それは斜めに、すなわち上方かつ前方へ放たれる。こうして身体が前と上へ向かう構えをとることで、跳び上がるときに大きな弧を描き、跳躍の距離を増すのである。

第94章 上へ跳ぶときの三つの運動について

人が上へ跳ぶとき、足の先が地面を離れるまでの間、頭の運動は踵の三倍、腰の二倍の速さである。三つの角が同時に開いて伸びるからである。最も上の角は身体が前面で大腿と接合するところにできるもの、第二は大腿と脚の後ろの関節にできるもの、第三は前面の足の甲にできるものである。

第95章 四肢の楽な運動について

第95章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

運動の自在さと楽さについて、ぜひ観察すべきことがある。少し身体を回さねばならない人物を表そうとするときは、足や他のすべての四肢を頭と同じ方向に動かしてはならない。その運動を足、膝、腰、首の四つの関節に分けよ。右脚で立つなら、左の膝は少し内側に曲げ、その足はやや外へ上げるべきである。左肩は右肩より低くし、うなじは左足の外くるぶしと同じ側へ向け、左肩は右足の親指の真上に来るようにする。そして一般の格率として、人物は頭を胸とまっすぐに向けないものと心得よ。自然はわれわれの便宜のために、目があたりを見回そうとするときに首がどの側へも楽に回るようにつくったのであり、他の関節もある程度これに従属している。人物が座っていて、両腕が身体を横切って何かの仕事をしているなら、胸は腰の関節の上で回る。

関連する箇所(英語のページ):

第97章 大腿を動かさずに脚を回すことについて

大腿を同じ運動で回さずに、脚を内側や外側に回すことは不可能である。膝の骨の組み合わせ方は、前後にしか動かず、それも歩いたりひざまずいたりするのに必要な分しか動かないようになっているからである。膝の関節の骨の形がそれを許さないので、横に動くことは決してない。もしこの関節が、肩の関節や大腿骨と腰の関節のようにあらゆる側に曲がるようつくられていたなら、人の脚は前後と同じくらい左右にも曲がり、大腿とまっすぐになることはまれか、まったくなかったであろう。そのうえこの関節は一方向にしか曲がらないので、歩くときに脚の直線を越えることは決してない。前にしか曲がらないのである。もし後ろに曲がることができれば、人はいったんひざまずくと二度と足で立ち上がれないであろう。というのも、(両膝をついて)ひざまずいた姿勢から起き上がろうとするとき、人は身体の全重量を一方の膝に支えさせ、他方の膝の荷を解く。後者はそのとき自らの重さしか感じないので楽に持ち上がり、足の裏を地面に平らにつける。そしてその足に全重量を戻し、手を膝について、同時にもう一方の腕を伸ばし、頭を上げ、大腿を身体とまっすぐにして跳ね起き、その足で立ちながら、他方の足を引き寄せるのである。

第98章 人物の姿勢

定まった姿勢をとる人物であっても、諸部分にはいくらかの対比をもたせなければならない。一方の腕が前へ出るなら、他方は静止しているか後ろへ行く。人物が片脚で立つなら、その側の肩は他方より低い。これは判断力のある芸術家たちが守るところで、彼らは人物が倒れそうに見えないよう、常に足の上でよく釣り合わせるよう注意している。というのも、片足で立つと、少し曲げられたもう一方の脚は、死んでいるのと同じで身体を支えないからである。それゆえ、その脚の上の諸部分は、重さの中心を身体を支える脚の上に移さなければならない。

関連する箇所(英語のページ):

第99章 四肢の優美について

四肢は、人物が伝えようとする意味を表す優美な運動のうちで、身体にふさわしくしなければならない。上品で快い立ち居振る舞いの印象を与えるべきものであれば、四肢はほっそりとして形がよく、しかし痩せてはいないものとし、筋肉はごくわずかに示し、必ず現れざるをえないものを柔らかく示すにとどめ、腕は特にしなやかにし、どの部分も隣り合う部分と一直線にならないようにせよ。人物の運動のために右の腰が左より高くなるなら、肩の関節をその腰の最も高い部分の真上に落とし、その右肩を左肩より低くせよ。首のくぼみは常に、身体を支える足の甲の中央の真上に来る。重さを支えない脚の膝は、他方の膝より少し低く、他方の脚の近くに置く。

頭と腕の位置については無限にあり、それゆえそれらに関する細かな規則には立ち入らない。ただ、楽で自在で優美であり、曲げ方に変化があって、木片のようにこわばって見えないようにすべきだと言えば足りよう。

関連する箇所(英語のページ):

第100章 四肢の見え方と変化を記憶にとどめることは不可能であること

第100章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

いかなる動物のいかなる部位であれ、その見え方や運動のすべてを記憶にとどめることは不可能である。このことを手の見え方によって例証しよう。あらゆる連続量は無限に分割できるので、手を見る目がAからBへ動くとき、それは距離A Bを動くのであり、この距離もまた連続量で、したがって無限に分割できる。そして運動のあらゆる部分において、手の見え方と形は目に対して変化する。目が円全体を回っても同じことである。手を上げて動かす場合も同じで、連続量である距離を通過するのである。

第101章 人物の運動

頭を肩の上にまっすぐ載せてはならず、人物が上を見ていても下を見ていてもまっすぐ見ていても、少し右か左へ横に向けよ。生命と精気の動きを与えることが必要だからである。また、正面からであれ背面からであれ、すべての部分が上から下までまっすぐに重なるように人物を組み立ててはならない。そのような人物を取り入れたいなら、老年に用いよ。腕や脚の同じ運動を繰り返してはならない。同じ人物においてはもちろん、そばや近くに立つ人物においてもである。ただし事の必要や、表そうとする主題の表現がそれを強いる場合は別である。

関連する箇所(英語のページ):

第102章 普通の運動について

人の運動の多様性は、心に影響する出来事や思いの多様性に等しい。そしてこうした思いや出来事のそれぞれは、当人の気質と年齢に応じて、多かれ少なかれ作用する。同じ原因でも、青年の動作と老年の動作とでは、まったく異なる結果をもたらすからである。

関連する箇所(英語のページ):

第104章 複合した運動

複合した運動とは、ある特定の動作を生むために、身体が下へと横へ同時に曲がることを求めるものである。画家は構図において、主題の性質に応じてこの複合した運動を用いるよう注意し、主題と何のつながりもない単純な運動の人物を持ち込んで、その効果を弱めたり損なったりしないようにしなければならない。

第105章 主題にふさわしい運動

人物の運動は、その動作の力に必要な強さの量を表すものでなければならない。棒を取り上げるのに、材木をやすやすと持ち上げるほどの力を用いさせてはならない。それゆえ、扱う荷の質に応じて、力の表現に大きな変化を示せ。

第106章 ふさわしい運動

心の動きには、身体の特定の運動によって表されないものがあり、他方、それなしには表現が示せないものもある。前者では、腕は垂れ下がり、手や、ふだん最も活発な他のすべての部分は静止したままである。しかし身体の動作を生むような魂の動きは、心の意図にふさわしい運動へと四肢を導かねばならない。とはいえ、これは広大な主題であり、それについては語るべきことが多い。第三の種類の運動があり、これはすでに述べた二つにあずかるものである。そして第四の種類は、そのどちらにもよらないものである。この最後のものは無感覚あるいは狂乱に属し、狂気や愚昧に数えるべきものであって、グロテスクやモレスコの装飾にのみ適している。

第109章 四肢の運動について

すべての四肢を、それぞれ固有の働きに用いよ。たとえば、死体や眠っている身体では、どの部分も生きていたり目覚めていたりするように見えてはならない。全身の重さを支える足は、指を上げ下げして遊ばせるのではなく、地面に平らにつけるべきである。ただし完全に踵で立っている場合は別である。

第110章 心の運動について

単なる思考、すなわち心の働きは、身体の単純で楽な運動しか引き起こさず、あちらこちらへと動かすことはない。その対象は心の内にあり、心が内に集中しているときは感覚に作用しないからである。

線遠近法

第112章 術の理論を学ばずに実践に身を入れる者について

その学理の部分を前もって熱心に研究することなく、術の実践に夢中になる者は、舵も羅針盤もない船で海に乗り出す船乗りにたとえられる。彼らは望む港に着けるかどうかわからないのである。

実践は常によい理論の上に築かれなければならない。その案内であり入口であるのが遠近法であり、それなしには何ごともよくなしえない。

第114章 輪郭線または外形と呼ばれる物の境界について

物体の輪郭線や外形はごくわずかしか認められないものであり、対象との間にわずかな距離があるだけで、目は友人や親類の顔立ちも、その衣服と全体の様子によらなければ見分けられない。こうして目は全体の知識によって部分を知るに至るのである。

第115章 線遠近法について

線遠近法とは、定められた規則によって、物のそれぞれの距離に応じた正しい寸法を与えることにある。すなわち第二の物は第一の物より小さく、第三の物は第二の物より小さく、次第についには見えなくなる。私が経験によって見いだしたところでは、第二の物が第一の物から、第一の物と目との距離と同じだけ離れていれば、同じ大きさであっても第二の物は第一の物の半分の大きさに見える。第三の物が第二の物の後ろに同じ距離だけ離れていれば、三分の二だけ小さくなる。こうして順々に、等しい距離ごとに比例して小さくなっていく。ただしその間隔が二十腕尺を超えないことが条件である。この距離では大きさの四分の二を失い、四十腕尺では四分の三を減じ、六十腕尺では六分の五を失い、以下順次同様である。しかし、絵からはその大きさの二倍の距離を取らなければならない。一倍の距離しか取らなければ、第一の物から第二の物への寸法に大きな違いが生じるからである。

第116章 距離によって物のどの部分が最初に消えるか

大きさの小さい部分が最初に視界から消える。こうなるのは、同じ距離にあっても小さな物の形は大きな物より鋭い角度で目に達し、その知覚は大きさが小さいのに応じて小さくなるからである。したがって、大きな物でも遠く離れ、そのため小さな角度で目に達して視界からほとんど失われるのであれば、小さな物はまったく消えてしまうことになる。

第118章 視点について

視点は普通の背丈の人の目の高さに置き、地平線の上に定めなければならない。地平線とは、平らな土地が空と接して終わるところにできる線である。この線より上にある山については例外としなければならない。

関連する箇所(英語のページ):

第121章 距離に応じて視界から失われる物について

ある距離まで遠ざかることで最初に消えるのは、物の輪郭線すなわち境界である。さらに遠ざかると、第二に消えるのは隣り合う物体を分ける影である。第三は脚と足の太さである。こうして順に小さな部分が視界から失われ、ついには明瞭な部分のない混然とした塊のほかに何も残らなくなる。

第122章 誤りは大きな物より小さな物において見えにくいこと

この小さな物が人か他の動物を表すものとすると、諸部分はこれほど小さくされているので、大きな尺度の場合と同じ正確な比例で描くことも、同じ精密さで仕上げることもできないが、まさにそのために欠点は目立ちにくくなる。たとえば二百ヤードの距離から人を眺めて、その人が美しいか醜いか、不格好か均整がとれているかを、十分に注意して判断しようとしても、いくら努めてもほとんど断定できないことがわかるであろう。その理由は、人が距離によってあまりに小さくなるので、諸部分を細かく見分けることが不可能だからである。この人物の縮小を実地に確かめたければ、目の前およそ九インチのところに指を立て、指の先端が遠くの人物の頭の先に合うようにせよ。指がその頭だけでなく身体の一部まで覆うことがわかるであろう。これはその物の見かけの縮小の明白な証拠である。それゆえ、ある距離を置くと、われわれは疑いにとらわれて、友人の姿さえほとんど見分けられないことがしばしばあるのである。

関連する箇所(英語のページ):

第123章 同じ壁に物語の主題を上下に重ねることは避けるべきこと

礼拝堂の正面や側面で画家たちに広く行われてきたこの習慣は、大いに非難されるべきものである。彼らはまず一つの区画に、物語画とその風景および建物を描く。次に別の区画を上に設け、別の高さに別の建物とともに別の物語を描く。さらに第三、第四へと進み、見る者が階段を上っていくかのように視点を変える。ところが実際には、見る者はそれらすべてを下から見なければならないのであり、このようなことにおいてこれははなはだ不適切である。

視点が見る者の目であることは周知である。では、聖人の生涯のような一連の主題を同じ壁の異なる区画にどう表すのか、と問われるなら、私は次のように答える。最も主要な出来事を最も大きな区画に置き、視点を見る者の目の高さにせよ。その主題を大きな人物で始め、上へ進むにつれて人物も建物も物を小さくし、遠近法の効果に応じて平面を変えよ。しかし視点は決して変えてはならない。こうして一連の主題を完成させ、ある高さに達すると、そこではもはや地上の物は見えず、木々の梢か雲や鳥しか見えなくなる。人物を入れるなら、天使や栄光の中の聖人のように空中のものでなければならず、物語の目的にかなう場合に限る。そうでなければ、この種の絵画に手を出してはならない。作品は欠陥のあるものとなり、当然の非難を受けるであろう。

第124章 絵画の物は、なぜ自然の物のように浮き出して見えることがありえないのか

第124章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

画家たちは、自分の絵が、同じように平らな面に現れている鏡の中の自然の物と同じ立体感も生命ももたないのを見て、自然を模倣できることにしばしば絶望する。彼らは、自分たちには明るさでは鏡の中の物の光の質を超え、暗さでは影の質を超える色があると言う。そして、真の原因を知らないので、この事情を自らの無知のせいにする。絵画の中の物が鏡の中の物と同じ立体感で見えることは、片目だけで見るのでないかぎり不可能である。

その理由はこうである。二つの目A BがMとNのように前後に並ぶ物を見るとき、両方が見える。視線の底辺が広いので、MはNの空間を完全に占めることができず、第二の物が第一の物の後ろに見えるからである。しかし片目を閉じて他方の目Sで見るなら、物体Fは物体Rを完全に覆う。視線は一点から始まって、物体Fを底辺とする三角形をなし、延長されるとFの両端で開いていく二本の接線をつくるが、この接線は後ろの物体Rに触れることができず、したがってそれを見ることは決してできないからである。

関連する箇所(英語のページ):

第125章 絵画の物に適切な寸法を与える方法

第125章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

実物大の外観を与えるためには、作品が(細密画のように)小さい場合、前景の人物をどんな大きな絵の人物とも同じくらい精密に仕上げなければならない。小さいものは目のすぐ近くへ寄せて見られるからである。しかし大きな絵は少し離れて見られる。それゆえ両者の人物は大きさがまったく違っていても、見かけは同じになる。これは目がそれらの物を同じ角度で受け取ることから生じるのであり、次のように証明される。大きな絵をB C、目をA、B Cにある人物がそれを通して見えるガラス板をD Eとする。目を固定すれば、絵B Cの写しの人物は、ガラスD Eが目Aに近いのに応じて小さくなければならず、同じように精密に仕上げなければならない。しかし絵B CをガラスD Eの上に描くなら、これは絵B Cより仕上げを減らし、ガラスF Gの上に移された図M Nよりは仕上げを多くすべきである。なぜなら、人物P OをB Cの実物と同じだけ仕上げるとすれば、O Pの遠近法は誤りとなるからである。人物の縮小に関しては正しく、B CはP Oに縮小されているとしても、仕上げが距離に合わないことになる。実物B Cの完全さを与えれば、B CはO Pと同じほど近くに見えてしまうからである。しかしO Pの縮小を求めるなら、O Pは距離B Cにあるものとして見いだされ、仕上げの減少はF Gにおけるものとなる。

第126章 ある場所を正確に描く方法

紙と同じ大きさのガラスを取り、目と描こうとする物の間にしっかりと固定し、頭を枠に固定して(動かせないようにして)ガラスから二フィートの距離に置け。片目を閉じ、ガラスを通して見えるものすべてを細筆でガラスの上に正確に描け。その後、ガラスに描いたものを紙に写し取れ。その写しには、空気遠近法を守りながら、思いのままに彩色すればよい。

第127章 付属の部分においても避けるべき不均衡

多くの画家が犯す大きな過ちがあり、大いに非難されるべきものである。それは、人の住まいや構図の他の部分をあまりに低く描き、扉がそこに住む人の膝の高さにも届かないようにすることである。しかもその位置からすれば、それらは入ろうとしているらしい人よりも見る者の目に近いのである。私は、円柱に支えられた柱廊に人物をぎっしり載せた絵をいくつか見たことがある。一人は寄りかかった円柱を杖でもあるかのように握っており、ほかにも似たような誤りがある。これらは細心の注意を払って避けなければならない。

第128章 人物の手法や比例の悪い選択を避けるための教え

画家は自然の中で最も均整のとれた手本に基づいて自らの手法をつくるべきである。その手本を測った後、自分自身も測り、自分の欠点や不足を完全に知っておくべきである。この知識を得たならば、自分の身体に見いだした欠点を作品に持ち込まないよう、常に注意しなければならない。これらの欠点は見慣れたものとなって判断を誤らせ、もはや気づかなくなるからである。それゆえ、われわれとともに育つこの偏見と闘わなければならない。心は自らの住まいを好み、それを想像の中で美しいものとして描きがちだからである。どれほど器量の劣る女性でも、怪物でないかぎり崇拝者が見つかるのは、同じ動機によるのであろう。こうした心の傾きには、十分に警戒しなければならない。

第129章 人物の多様性

画家は万般の卓越を目指すべきである。あることを上手に描き、他のことを下手に描くなら、大いに品位を欠くことになるからである。多くの者がそうであり、彼らは手にしたコンパスで測り比例を定めた裸体だけを研究し、多様性を求めない。人は均整がとれていても、背が高いことも低いことも、太いことも痩せていることも、中背であることもある。自然の最も完全な状態に存在するこうした多様性を大いに用いない者は、同じ一つの鋳型で鋳たような人物をつくることになり、これは大いに非難されるべきである。

関連する箇所(英語のページ):

第130章 画家はどのように研究を進めるべきか

画家は、目の前の注目すべき物について、常に心の中で一種の推論あるいは議論の体系を組み立てるべきである。立ち止まり、書き留め、その物についてある規則を立て、場所、状況、光と影を考察すべきである。

第132章 構図の学び方

若い学徒は、まず一人の人物を軽く下描きすることから始め、四肢の縮め方と伸ばし方をすでに知ったうえで、それをあらゆる方向に回してみるべきである。その後、二人の人物をさまざまな姿勢で組み合わせる。たとえば勇ましく戦っているところとしよう。この構図もまた、同じ表現に向かって、あらゆる方向から、さまざまなやり方で試みなければならない。次に、一方を非常に勇敢な者、他方を臆病者と想像してもよい。これらの姿勢と、他の多くの偶発的な心の動きを、細心の注意をもって研究し、吟味し、考え抜け。

第135章 物語画のための自然からの習作について

その物語画が描かれる場所、特にその高さをよく考えることが必要である。画家はそれに応じて、その物語画の習作をつくるためのモデルを置き、絵が見る者の目の上に来る分だけ、自分を対象より下に置くようにせよ。さもなければ作品は欠陥のあるものとなるであろう。

関連する箇所(英語のページ):

第136章 物語画における人物の多様性について

物語画は、その最大限の広がりにおいて多様性を示さなければならない。気質、大きさ、顔色、動作において、肥えた者と痩せた者、太い者と細い者、大きな者と小さな者、粗い者と滑らかな者、老いと若さ、力強く筋骨たくましい者と筋肉のほとんど現れない弱い者、快活と憂愁においてである。髪の縮れた者もまっすぐな者も、背の低い者も高い者も、動きの素早い者も遅い者もおり、主題の求めに応じて衣服と色彩にも多様性をもたせるべきである。

関連する箇所(英語のページ):

第137章 物語の多様性について

画家は構図に大きな多様性を持ち込むことを喜びとし、繰り返しを避けて、この着想の豊かさによって見る者の目を引きつけ魅了すべきである。表そうとする主題によって、顔立ちも年齢も衣服も異なる男たちが、女性、子ども、犬、馬、建物、丘や平地とともに一つの群れをなす必要があるならば、王や為政者や哲学者のような主要な人物には威厳と品位を守らせ、下層の民衆から切り離せ。悲しむ人物や泣く人物を、喜び笑う人物と混ぜてはならない。陽気な者には同じ気分の者たちが付き添うものであることを、自然が教えているからである。笑いは笑いを生み、その逆もまた然りである。

第138章 人物の年齢について

表そうとする主題がそれを強いるのでないかぎり、多くの少年を同じ数の老人と並べたり、若者を幼児と、女性を男性と並べたりしてはならない。

第139章 顔の多様性について

イタリアの画家たちは、古代の作品から取ったローマ皇帝の顔、さらには全身像を構図に持ち込むという、共通の欠点を非難されてきた。このような誤りを避けるために、人物の部分においても全体においても繰り返しがないようにせよ。別の構図においても同じ顔があってはならない。そして人物が対比されるほど、すなわち醜い者が美しい者に、老人が若者に、強い者が弱い者に対置されるほど、絵は人を喜ばせ、賞賛を受けるであろう。互いに対比されたこれらの異なる性格は、全体の美しさを増すのである。

画家が構図を組み立てている間に、手元にある小さな下絵や素描の切れ端を用いて、それを目的に役立てようとすることがしばしばある。しかしこれはきわめて賢明でない。描いた四肢が、表そうとすることにふさわしい運動をもたないとわかることがよくあるからである。そしていったん採用し、正確に描き、さらによく仕上げてしまうと、それを消して他のものに変えることを渋るであろう。

第141章 物語画の群像の組み立て方を学ぶ方法

遠近法を十分に学び、さまざまな物体や物の解剖と形を完全に描けるようになったら、散歩の途中で、人々が話し合い、争い、笑い、戦うときのさまざまな動作を観察し考えることを楽しみとすべきである。彼らの位置と、見物人の位置に注意せよ。見物人が戦う者たちを引き離そうとしているのか、ただ見ているだけなのかに注意せよ。手帳に軽い線ですばやく下描きせよ。手帳は常に携え、消してはならないのだから、色染めした紙でつくっておくべきである。手帳がいっぱいになったら別のものを用いよ。これらは消すべきものではなく、細心の注意をもって保存すべきものだからである。物体の形と運動は無限に多様であって記憶にはとどめきれないので、これらの下絵を自らの助手とも師ともして保存せよ。

関連する箇所(英語のページ):

第142章 人体の運動の学び方

人体のさまざまな運動に完全に通じるために第一に必要なことは、あらゆる姿勢におけるすべての部分、特に関節を知ることである。次に、機会があるたびに、たまたま目に入る人々の動作を、彼らに気づかれないように手帳に軽く下描きせよ。気づかれてしまえば、内なる感情に促された動作の自在さが乱されるからである。たとえば二人の男が争って怒り、それぞれ自分が正しいと思っているらしく、激しく眉や腕やその他すべての四肢を動かして、言葉と感情にふさわしい運動をしているときがそうである。怒りや、笑い、涙、苦痛、驚嘆、恐れなどの他の偶発的な感情を彼らに真似させようとしても、こうはできないであろう。それゆえ、こうしたさまざまな運動やそばに立つ人々の群れを下描きするための小さな手帳を、決して手放さないようにせよ。これによって物語の組み立て方を学ぶことができる。よい画家が主に注意すべきことは二つある。一つは人物の正確な輪郭線と形であり、もう一つはその人物の心の内に起こることの真の表現である。画家はそれを自ら感じなければならず、これは非常に重要である。

第143章 衣服、衣文、折り目について

人物に着せる衣文は、覆うべき部分を取り巻くように折り目を整え、光の塊の中には暗い折り目がなく、影の塊の中には光を受けすぎる折り目がないようにしなければならない。折り目は穏やかにその上を行き、諸部分を描き出すものでなければならず、その部分の厚みより深い硬い刻み目で四肢を切るような横線で描いてはならない。同時に、衣文は身体に沿っていなければならず、空の布の束のように見えてはならない。これは多くの画家の欠点である。彼らは折り目の多さと変化に夢中になって人物を煩わしくし、衣服の目的を忘れている。衣服の目的は、触れるところで諸部分を優美に包み取り巻くことであり、諸部分の突き出るところで膨らんだ袋のように風を満たすことではない。こうした衣文の中にいくつかの美しい折り目を入れることを怠るべきでないことを、私は否定しない。しかしそれは大いなる判断力をもって行わねばならず、手足の動作と全身の位置によって布が寄り集まるところに、諸部分に合わせて入れるべきである。とりわけ、多くの人物の構図では、折り目の質と量を変えるよう注意せよ。厚い毛織物による大きな折り目をもつ者があれば、より薄い布をまとって折り目の狭い者もあり、鋭くまっすぐな折り目の者もあれば、柔らかく波打つ折り目の者もあるようにするのである。

第144章 衣文の折り目の性質について

多くの画家は、衣文の折り目を鋭角で深くくっきりとつくることを好む。別の画家たちはほとんど認められない角でつくり、また角をまったくつくらず、その代わりにある種の曲線でつくる者もいる。

第145章 衣文の折り目はどのように表すべきか(図版XVIII)

第145章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
第145章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

衣文のうち、寄せ集められた場所から最も遠い部分は、より本来の状態に近く見える。すべてのものは本来の形を保とうとする自然の傾きをもつ。それゆえ、両面とも等しい厚みの布地は、常に平らなままでいようとする。そのため、何かの折り目によって平らな状態を捨てるよう強いられると、最も拘束された部分では本来の形に戻ろうと絶えず努めていることが認められ、そこから最も遠い部分は、ゆったりと広がった折り目によって、もとの状態をより多く取り戻す。たとえばA B Cを上に述べた衣文とし、A Bを折られ拘束された場所とする。拘束された場所から最も遠い部分は本来の形へより多く戻ると私は述べた。したがって最も遠いCは、他のどの部分よりも幅広く広がっているであろう。

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第146章 衣文の折り目はどのようにつくるべきか

衣文を多くの折り目で煩わしくしてはならない。むしろ人物の手や腕で持ち上げられているところにだけいくらかの折り目を設け、残りは自然のままに素直に垂らしておくべきである。折り目は自然から研究しなければならない。すなわち毛織物のつもりならその布に基づいて折り目を描き、絹や薄い布地、あるいは労働者の着る非常に厚いものなら、折り目の性質によってそれを区別せよ。しかし一部の者がするように、紙や薄い革を着せた模型から写してはならない。それは大いに人を誤らせるからである。

第147章 折り目の短縮法(図版XIX)

人物が短縮されているところでは、他の部分より多くの折り目が現れ、すべて円を描いて人物を取り巻くようにすべきである。Eを目の位置とする。M Nでは、円形の折り目の中央は、目から遠ざかるのに応じて、順次その輪郭線からより遠くへ離れる。もう一方の人物のM Oでは、これらの円形の折り目の輪郭線はほとんどまっすぐに見える。それは目の正面に位置するからである。しかしPとQでは、NとMの場合のように、まったくその反対となる。

第148章 折り目について

衣文の折り目は、人物の運動がどのようなものであれ、その輪郭線の形によって常にその人物の姿勢を示し、見る者の心に身体の真の位置について疑いや混乱を残さないようにすべきである。また、影によって四肢を断ち切る折り目、すなわち覆っている部分の表面より深く入り込むように見える折り目があってはならない。人物に幾重にも衣服を重ねて着せるときは、一番上の衣がただの骸骨を覆っているように見えてはならず、肉が十分についていること、そして下に着た衣服の数にふさわしい折り目の厚みのあることを表すようにせよ。

四肢を取り巻く折り目は、取り巻く部分の端に近づくにつれて厚みを減じるべきである。

四肢に密着する折り目の長さは、その部分が短縮によって縮まる側で別の折り目を生み、反対の側ではより広がるようにすべきである。

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第149章 品位について

表すものすべてにおいて品位を守れ。すなわち、表すべき主題の尊さや卑しさに応じた、動作、衣服、場所のふさわしさを守れ。たとえば王は顔立ちも衣服も厳かで威厳あるものとし、その場所は立派に飾り、従者やそばに立つ者たちは畏敬と賛嘆を表し、王宮にふさわしい衣服をまとって高貴に見えるよう注意せよ。

反対に卑しい主題を表すときは、人物を下賤で軽蔑すべきものに見せ、そのまわりの者たちも似た顔つきと、卑しく厚かましい心を示す動作をもたせ、みすぼらしい衣服を着せよ。要するに、いずれの場合も、諸部分は構図全体の感情に呼応していなければならない。

老年の運動は青年のそれに似てはならず、女性の運動は男性のそれに似てはならず、男性の運動は少年のそれと同じであってはならない。

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第150章 構図における人物の性格

一般に、普通の物語の主題では、画家は老人をごく少数だけ入れ、その少数を若者から離しておくべきである。老人は少数であり、その習慣は若者のそれと合わないからである。習慣の一致がないところに親しみはありえず、それがなければ集まりはすぐに離散する。しかし主題が謹厳な様子、たとえば評議会のような重要な用向きの集まりを求めるなら、若者はわずかだけ入れよ。若者はそのような集まりを進んで避けるからである。

第151章 人物が自然な姿勢にあるときの筋肉の運動

人物を動かしていると想定される感情と情念をその姿勢で表さない人物は、筋肉が意志に従っていないことを示すように見え、画家の判断力の大いなる不足を示すことになる。それゆえ人物は大きな熱意と意味を示さなければならず、その姿勢はその意味に非常によくふさわしく、見誤られることも他のことに転用されることもないものでなければならない。

第152章 絵画の教え

画家は、人々が心の強く激しい動きに駆られて、考えもせずにしがちな素早い運動に注意すべきである。それを覚え書きにし、手帳に下描きして、目的にかなうときに用いるようにすべきである。そして生きたモデルに同じ姿勢をとらせ、働いている筋肉の性質と様子を見るべきである。

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第153章 人の運動について(図版XX、XXI)

第153章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
第153章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

術の第一の主要な部分は、あらゆる種類の構図、すなわち物を組み合わせることである。第二は人物の表情と運動に関するものであり、それらがよくふさわしいものであること、していることに注意を向けているように見えること、その場にふさわしい表情の度合いに応じて敏活に気力をもって動くように見えること、遅くのろい運動も、熱心に追いかける運動も表すこと、そして素早さと荒々しさを、演じ手の感覚を伝えるほどの力で表すことを求める。人物が投げ槍や石などを投げようとするときは、すべての四肢の姿勢と配置によって、その意図がはっきり見えるようにせよ。向かいの図版には、動作と力の両方において異なる二つの例がある。力強さにおいて第一はAであり、第二はBである。しかしAのほうがBより遠くへ武器を投げるであろう。というのも、両者は同じ点へ投げようと望んでいるようであるが、Aは足を対象に向け、力を増すために身体を反対の方向へねじって後ろへ曲げているので、投げようとする点へ、より大きな速度と力で戻るからである。ところが人物Bは足を身体と同じ方向に向けているので、身体はひどく不都合に元の位置へ戻り、そのため力は弱められる。大きな努力を表現するには、身体の準備の運動は強く激しいものでなければならず、ねじって曲げることで、都合よく楽に戻り、それによって大きな効果をもつようにしなければならない。同じように、石弓が力強く張られていなければ、それが射るものの運動は短く効果がない。推進のないところに運動はありえず、推進が激しくなければ運動はのろく弱いからである。同様に強くない弓には運動がない。また弓は、張られていても、それを動かす別の力によって推進が与えられるまではその状態のままであり、それを曲げるのに用いられた力に等しい激しさで射るのである。同じように、身体をねじらず曲げもしない人は何の力も得ない。それゆえAは投げ槍を投げた後で、反対の方向、すなわち投げた側へねじれていることに気づくであろう。そして彼が得たのは、最初の位置へ戻るのに役立つだけの力にすぎない。

関連する箇所(英語のページ):

第154章 姿勢と四肢の運動について

同じ絵の中で同じ姿勢を繰り返してはならず、同じ人物の中で四肢の同じ運動を繰り返してはならない。いや、手や指においてさえそうである。物語が多数の人物を必要とする場合、たとえば戦闘や兵士の虐殺のように、突く、斬る、裏手で打つの三通りの打ち方しかないものでは、斬っている者たちをすべて異なる向きで表し、ある者は背を向け、ある者は脇を見せ、他の者は正面から見えるよう注意しなければならない。同じように三通りの戦い方に変化をもたせ、すべての動作がこの三つの原理に関係をもつようにせよ。戦闘では、複合した運動が大きな技を示し、全体に気力と活気を与える。複合した運動とは、たとえば一人の人物が脚の正面を見せながら同時に肩の側面を見せるものをいう。しかしこれについては別の箇所で論じよう。

第155章 物語の群れから離れた単独の人物について

単独にしようとする人物では、四肢の同じ運動を繰り返してはならない。たとえば走っている人物を表すなら、両手を前へ突き出してはならず、一方を前へ、他方を後ろへ出すようにせよ。そうでなければ走ることはできない。右足が前へ出るなら、右腕は後ろへ、左腕は前へ行かなければならない。諸部分のこのような配置と対比がなければ、うまく走ることは不可能だからである。別の人物がこれに続くものとすれば、その脚の一方はやや前へ出し、他方は頭の真下に垂直に置くべきであり、同じ側の腕は前へ行くようにすべきである。しかしこれについては運動の書でさらに詳しく論じよう。

第156章 人物の姿勢について

画家は、不意の出来事によって引き起こされる人々の運動と動作に注意を払わなければならない。その場で観察して下絵をとるべきであり、そうした表現が必要になるまで待って、それを人に真似させてはならない。たとえば何の理由もないのにモデルに泣かせるようなことである。原因のない表現は、生き生きともせず自然でもないであろう。しかし、あらゆる動作を起こるままに自然から観察しておき、その後モデルに同じ姿勢をとらせて記憶を助け、手がけている主題に応じて目的にかなうものを見いだすことは、大いに役立つであろう。

第157章 嵐の表し方

嵐について正しい観念を得るには、その作用を注意深く考察しなければならない。風が海や陸の上を激しく吹くと、全体にしっかりと固定されていないものをすべて動かし、運び去る。雲はちぎれて乱れたものとして表し、風の方向と力に従って運ばれ、砂浜から舞い上がる砂埃の雲と混じり合っているようにすべきである。木の枝や葉は嵐の激しさに運ばれ、無数の軽い物とともに空中に散らされているように表さなければならない。木々や草は、風の進む道に屈するかのように地に向かってたわめられなければならない。大枝は本来の形からねじ曲げられ、葉は裏返って絡み合っているべきである。絵の中に散らばる人物のうち、ある者は地面に投げ倒され、外套にくるまって埃に覆われ、ほとんど見分けがつかないようにすべきである。立っている者のうち、ある者は同じ目に遭わないように大木の陰に身を寄せてしがみつき、他の者は地に身をかがめて、埃を防ごうと手で顔を覆い、髪と衣服は風のなすがままにまっすぐ舞い上がっているようにする。

嵐の海の恐るべき高波は泡立つしぶきに覆われ、その最も微細な部分は風に舞い上げられて濃い霧のように大気に混じる。見える船は、綱が切れ、帆が裂けて風にはためいているようにすべきであり、ある船は折れた帆柱が船体の上に倒れかかり、荒れ狂う波のただ中ですでに横倒しになっているようにする。乗組員の中には、大声で助けを求めて叫び、砕けた船の残骸にすがりついているように表される者もあるべきである。雲は荒れ狂う風に駆られて高い山々の頂にぶつかり、その山々を包み、岩の多い岸に寄せる波のように砕けて、倍加した力で跳ね返っているように見せよ。大気は霧と埃と厚い雲によって恐ろしく暗くすべきである。

第158章 戦闘の構成の仕方

まず大気には、大砲や小銃の発射から生じる煙と、戦う者たちの馬が巻き上げる埃とが混然と混じり合っているさまを示せ。そして次のことに注意せよ。埃は土の性質をもつので重いが、その粒子が微細であるためにたやすく上へ押し上げられ、大気に混じる。しかし本来は再び下へ落ちるものであり、その最も微細な部分だけがかなりの高さまで達するのであって、最も高いところではきわめて薄く透明で、ほとんど大気の色に見える。煙はこうして埃っぽい大気に混じり、一種の暗い雲をつくる。その上部では煙は青みがかった色調によって埃と区別され、埃はより多く本来の色を保つ。光の来る側では、大気と煙と埃のこの混合は、反対の側よりはるかに明るく見える。戦う者たちがこの乱れた靄に包まれるほど、彼らは不明瞭に見え、その光と影はいっそう混然となる。銃兵の顔、身体、そのそばにあるすべての物には赤みを帯びさせ、大気や埃の雲にまで、要するに彼らを取り巻くすべてにそうせよ。この赤みは、その第一の原因からの距離に応じて弱めよ。見る者と光の間の遠くに見える人物の群れは、明るい背景の上の暗い塊となり、その脚は地面に近づくにつれて不定で失われたものとなる。そこでは埃がより重く濃いからである。

本隊から走り出る迷い馬を表そうとするなら、馬のひと跳びの距離ごとに離れた小さな埃の雲も入れよ。この小さな雲は馬から遠いほど薄く、乏しく、拡散していく。したがって足に最も近い雲が、最も明確で、最も小さく、最も濃いことになる。

大気を、あらゆる方向の矢で満たせ。上っていく矢、落ちていく矢、まっすぐ前へ飛ぶ矢があるようにせよ。小銃の弾丸は見えないが、その行く手は、全体の混乱を突き抜ける煙の筋で示される。前景の人物の髪は埃に覆われ、眉も、埃を受けやすいすべての部分も同様にすべきである。

勝利した側は前へ走り、髪や他の軽い部分を風になびかせ、眉を下げ、すべての四肢の運動を適切に対比させる。たとえば右足を前へ動かすときは、左腕も前へ出さなければならない。倒れた者を描くなら、血に染まって滑りやすい埃の上にその倒れた跡を記せ。そして血のあまり染み込んでいない地面には、そこを通った人と馬の足跡を記せ。乗り手の身体を引きずる馬もあるようにし、そうして引きずられた身体がつくる溝を後ろに残させよ。

敗者の顔は青ざめて打ちひしがれている。眉を上げ、額と頬のまわりに多くのしわを寄せる。鼻の先端は、目の隅まで続く弧を描くしわによって鼻孔からやや分かたれる。このしわは鼻孔が開いて上がることによって生じる。上唇はめくれて歯をあらわにし、口は大きく開いて激しい嘆きを表す。ある者は傷を負って地に倒れ、片手で身体を支えようとし、もう一方の手で目を覆い、その手のひらを敵に向けているさまが見えるようにせよ。他の者は逃げ去り、口を開けて大声で叫んでいるように見える。戦う者たちの脚の間の地面には、壊れた盾、槍、剣など、あらゆる種類の武器を散らせ。多くの死体を入れるべきであり、あるものは埃にすっかり覆われ、他のものは一部だけ覆われているようにする。傷口からじかに流れ出るように見える血は本来の色で表し、曲がりくねって流れ、やがて埃と混じって赤みがかった泥となるようにせよ。死の苦しみの中にある者もあるようにし、歯を食いしばり、目を荒々しく見開き、拳を握り締め、脚をねじ曲げているようにする。武器を奪われ、敵に打ち倒されながら、なお拳と歯で戦い、激しくも空しい復讐を遂げようと努める者もあってよい。乗り手を失った迷い馬が荒々しく乱れて走り、たてがみを風になびかせ、前にあるものすべてを足で踏み倒して大きな損害を与えていてもよい。傷ついた兵士が地に倒れかかり、盾で身を覆おうとする一方、敵がその上にかがんでとどめを刺そうとしているさまが見えてもよい。死んだ馬の下にいくつもの死体が積み重なっているようにせよ。勝者の中には戦いをやめた者として、埃と涙が混じって顔についた汚れをぬぐっている者があってもよい。

予備隊は陽気に、しかし用心深く進み、眉を前へ向け、手で目の上に陰をつくって、埃と煙の雲の中で敵の動きを見張り、指揮官の命令に注意を払っているように見えるようにする。その指揮官が杖を掲げて前進し、彼らの必要な場所を指し示しているようにしてもよい。川を入れてもよく、馬がそれを渡り、脚の間や空中に水を跳ね散らし、あたりの地面一面を水と泡で覆うようにせよ。血と殺戮の痕のない場所を一か所も残してはならない。

第159章 弁論家とその聴衆の表し方

大勢の人々に語りかけている人を表さなければならないときは、その話の主題を考え、その主題に姿勢を合わせなければならない。説得しようとしているのなら、それが身ぶりでわかるようにせよ。いくつかの理由から導いた説明をしているのなら、右手の二本の指を左手の一本の指の中に入れ、他の二本は折り曲げ、顔を聴衆に向け、口を半ば開いて語っているように見せよ。座っているなら、少し身を起こそうとしているように見せ、頭を前へ出させよ。立っている姿で表すなら、胸と頭を人々のほうへ前に傾けさせよ。

聴衆は黙って注意を傾け、目を語り手に向け、賛嘆の様子を見せるようにする。老人たちも入れるべきであり、賛同のしるしに口をしっかりと閉じ、唇を押し合わせて口の隅と頬のまわりにしわをつくり、驚きに打たれたかのように眉を上げて額のまわりにしわをつくっている。そばに座る他の者の中には、片方の膝のまわりで両手を組んでいる者もあり、片膝を他方の膝に載せ、その上で一方の手に肘を受け、もう一方の手で立派な髭に覆われた顎を支えている者もあるようにせよ。

関連する箇所(英語のページ):

第160章 指し示す身ぶりについて

時間的にせよ位置的にせよ、人物が近くのものを指す動作は、身体からごくわずかしか離れない手によって表すべきである。しかし同じものが遠くにあるなら、手も身体から遠く離さなければならず、指し示す人物の顔は、それを示している相手のほうへ向けなければならない。

第161章 注目すべき出来事に立ち会う人々の姿勢について

注目に値する出来事に立ち会う者はみな賛嘆を表すが、その様子はさまざまである。正義の手が悪人を罰するときなどがそうである。主題が信心の行為であれば、居合わせる者すべての目は崇拝の対象に向けられ、ミサの聖体奉挙やそれに似た儀式のように、他の四肢のさまざまな敬虔な動作がこれを助けるようにする。主題が笑いを誘うものや、同情を呼び涙を誘うものであれば、すべての者が目を対象に向ける必要はなく、さまざまな動作で感情を表すであろう。何人かを群れとして集め、ともに喜ばせ嘆かせるようにせよ。出来事が恐ろしいものであれば、その光景から逃げ出す者たちの顔は、運動の小論で述べるようなさまざまな運動とともに、恐怖を強く表すものでなければならない。

第162章 夜の表し方

光をまったく奪われた物は、夜のように視界から失われる。それゆえそうした状況で物語を描こうとするなら、大きな火を想定しなければならない。その近くにある物はその色に染まり、近いほど多くその色にあずかる。火は赤いので、そこから光を受ける物はすべて赤みがかった色に見え、最も遠い物はまわりの闇にあずかる。火の前に表された人物は、火の明るさに応じて暗く見える。われわれの見るその部分は、彼らがさえぎる火の光ではなく、夜の闇に染まっているからである。火の両側にいる人物は、半ばは夜の影の中に、半ばは赤い光の中にある。炎の広がりの向こうに見える人物は、黒い背景の上でみな赤みがかった光を帯びている。その姿勢については、火に最も近い者は、焼けつく熱を防ぐ手や外套の覆いをつくり、顔を反対の側へ向けて、今にも逃げ出しそうにする。最も遠い者は、あまりの眩しさに痛むかのように、手で目の上に陰をつくっているだけである。

第163章 さまざまな着想へと心を目覚めさせる方法

これらの教えの中に、新しい種類の思索的な工夫を加えることを省くまい。一見つまらなく、ほとんど笑うべきものに見えるが、それでも構図の多様性を見いだす才能を助けるのに大いに役立つものである。

古く汚れた壁や、さまざまな色の石や筋のある大理石を注意深く見つめると、そこにいくつもの構図、風景、戦闘、素早く動く人物、奇妙な顔立ちや衣服、その他無数の物を見ているような気がしてくる。これらの混然とした線によって、着想の才は新たな働きへと奮い立たされるのである。

第164章 物語の構図について

画家がただ一人の人物を表すときは、特定の四肢であれ人物全体であれ、いかなる短縮も避けなければならない。その部門の知識をもたない者たちの偏見と争わねばならなくなるからである。しかし多くの人物からなる物語の主題では、短縮はきわめて適切に取り入れることができる。いや不可欠でさえあり、主題の求めに応じて遠慮なく用いるべきである。特に戦闘ではそうであり、いわば獣のような狂気に取り憑かれた、怒り狂う演じ手たちの群れの中では、当然多くの短縮と人物のねじれが生じるからである。

第165章 表現豊かな運動について

人物には、彼らが考え語ろうとすることにふさわしい動作をさせよ。これは耳の聞こえない人々を真似ることでよく学べる。彼らは手、目、眉、全身の運動によって心の思いを表そうと努めるからである。舌のない師が自らの理解しない術を教えるという考えを笑ってはならない。その者は表現豊かな運動によって、他の者たちの言葉や手本よりも上手に教えるであろう。それゆえ画家は、どの流派に属するにせよ、この格率によく注意し、自らの表す人物のさまざまな性質と、彼らが演じる主題の性質にそれを応用せよ。

関連する箇所(英語のページ):

第170章 顔の多様性について

人物の顔立ちは、そのさまざまな状況を表すものでなければならない。働く者、休む者、泣く者、笑う者、叫ぶ者、恐れる者、喜ぶ者などである。姿勢とすべての四肢もまた、顔に表された感情に呼応しなければならない。

第171章 顔の諸部分とその運動

心の不意の動揺によって引き起こされる顔のさまざまな部分の運動は多い。その主なものは、笑い、涙、呼び声、高音や低音での歌、賛嘆、怒り、喜び、悲しみ、恐れ、苦痛などであり、これらについて論じるつもりである。まず笑いと涙についてであるが、これらは口と頬の運動、眉を寄せること、眉の間の空間において非常によく似ている。魂のさまざまな動きによって影響を受ける顔、手、指、その他身体のすべての部分に起こる変化を論じるところで、しかるべく説明しよう。その知識は画家に絶対に必要であり、さもなければその人物は二度死んだものと言われかねない。しかし、反対の極端に陥らないよう注意することも非常に必要である。人物に度を越した運動を与えて、静かで穏やかな主題において戦闘や酔っぱらいの乱痴気騒ぎを表しているように見えてはならないのである。そしてとりわけ、物語のどの場面でも、演じ手たちは自分のしていることや進行中のことに注意を向け、彼らが集められた機会の求めに応じて、賛嘆、敬意、苦痛、疑い、恐れ、喜びを示す動作をとらなければならない。物語の異なる場面を同じ画布や壁に、異なる地平線で上下に重ねて置かないよう努めよ。さまざまな四角い小箱に品物を並べる宝石商の店のようになるからである。

第172章 笑いと涙

笑いの表情と涙の表情の間には、目、口、頬のいずれの顔の動きにも違いはない。ただ眉のしかめ方だけが異なり、泣くときにはこれが加わるが、笑うときには眉はより上がって広がる。泣く人物が衣服を引き裂くさまや、その他の表現を表すこともでき、それは感情の原因に応じてさまざまである。ある者は怒りのために泣き、ある者は恐れのために、他の者は優しさや喜びのために、あるいは疑いのために泣き、ある者は本当の苦痛や責め苦のために泣くが、他の者は同情から、あるいは友人や近親を失った悔いから泣くからである。こうした異なる感情は、ある者においては絶望のしるしとともに、他の者においては節度をもって表される。涙を流すだけの者もあれば、大声で泣き叫ぶ者もあり、また顔を天に向け、手を下げ、指をねじり合わせている者もある。さらに、肩を耳まで上げて不安でいっぱいの者もあり、以下、上記の原因に応じて同様である。

泣く者は眉を上げ、鼻の上で寄せ合わせ、額に多くのしわをつくり、口の隅を下げる。笑う者は口の隅を上げ、眉を開いて広げる。

第173章 怒りについて

激しい怒りの発作にある人を表すなら、別の者の髪をつかみ、その頭をねじ伏せて地面に押さえつけ、相手のあばらに膝を押しつけているようにせよ。右腕を上げ、拳は今にも打ち下ろそうとし、髪は逆立ち、眉は低くまっすぐで、歯は噛み合わされて口の隅に見え、首は膨れ、敵の上に身をかがめていることと激情の過度とにより、腹にはしわが寄っているようにせよ。

関連する箇所(英語のページ):

第174章 絶望

落胆の最後の行為は、人が自らの生命に終止符を打とうとするときである。その人物は、すでに傷を負わせた短刀を片手に持ち、もう一方の手で傷を裂き開いているように表すべきである。衣服と髪はすでに引き裂かれているようにする。足を開いて立ち、膝を少し曲げ、身体を前に傾けて今にも地に倒れそうである。

関連する箇所(英語のページ):

第175章 進むべき研究の道筋

自然の作品を模倣する術に大きく上達しようと望む学徒は、人物やその他の物の形を学び、それを忠実かつ精密に描き出せるようになるだけでなく、それらの物が現れる状況に応じて、固有の光と影を添えなければならない。

第176章 人物の輪郭線の知識と光と影の知識のどちらが最も有用か

輪郭線の知識は最も重要であるが、それでも研究を重ねることで大いに確実に得ることができる。人の姿のさまざまな部分の輪郭線、特に曲がらない部分のそれは、常に変わらないからである。しかし影の位置、質、量の知識は無限であり、最も広範な研究を必要とする。

第177章 絵画において影と輪郭線のどちらが最も重要か

絵の影づけで完全に達することは、単にその線を描くことより、はるかに多くの観察と研究を必要とする。その証拠に、線は目と模倣する対象の間に置いた薄布や平らなガラスの上にたどることができる。しかし影の無限の階調と、その溶け合いのためにそれは影づけには何の役にも立たない。影の溶け合いは明確な境界を許さず、たいていは混然としている。これは別の箇所で論証するとおりである。

関連する箇所(英語のページ):

第178章 画家の第一の目的と目標は何か

画家の第一の目標は、単なる平らな面を浮き彫りのように見せ、その一部を背景から離れて見せることである。術のこの部分で他のすべての者に勝る者は、最大の賞賛に値する。術のこの完成は、光と影の正しい配分、すなわち明暗法にかかっている。それゆえ画家が影を避けるなら、術の栄光を避けることになり、美しい色彩を賛美するばかりで立体感の知識をまるでもたない、俗で無知な者たちの評価を得るために、真の目利きたちにとって作品を軽蔑すべきものにしていると言ってよい。

第179章 絵画に関する表面の違い

立体には二種類ある。一方は表面が曲線的で、卵形または球形である。他方はいくつかの面、すなわち規則的あるいは不規則的な角をつくる側面をもつ。球形や卵形の物体は、背景とまったく同じ色であっても、常に背景から離れて見える。異なる面と角をもつ物体も常に背景から離れて見える。それらは常に面のいくつかに影を生じるように配置されているからであり、これは平らな面には起こりえない。

関連する箇所(英語のページ):

第180章 画家が万能となる方法

万能でありたいと望み、さまざまな批評家を喜ばせたいと願う画家は、同じ構図の中に、影に大きな力強さを与えられる物と、影の扱いに大きな柔らかさを与えられる物を合わせなければならない。ただし、どの場合にも、そうした大胆さと柔らかさの理由を示さなければならない。

第181章 制作の速さの前に正確さを学ぶべきこと

よく役に立つ習作をつくりたいと望むなら、素描に十分な時間をかけよ。光のうちで、どれがいくつ明るさにおいて第一位を占めるかをよく観察せよ。影についても同じで、どれが他より暗く、どのように溶け合うかを観察せよ。一方の質と量を他方と比較し、それらがどの部分に向いているかを観察せよ。輪郭線、すなわち四肢の区分にも注意せよ。どれだけの部分が一方の側にあり、どれだけが他方の側にあるか、またどこでそれらがより多く、あるいはより少なく現れ、広く、あるいは細いかをよく心にとめよ。最後に、影と光が硬い筆致や線なしに一つになり、互いの中に失われるよう注意せよ。煙が大気の中に消えていくように、光と影は目に見える分離なしに一方から他方へ移っていかなければならない。

習慣を身につけ、手を正確さへと養ったならば、制作の速さはおのずとついてくるであろう。

第185章 家で一つの光のもとに素描し、後でその習作を田園の別の状況と別の光に合わせる画家たちについて

家である特定の光のもとに自然から人物を素描し、後でその素描を、空の全般的な光を受ける広々とした田園を表す絵に用いる画家たちがいるが、これは大きな誤りである。そこではまわりの大気があらゆる側から光を与える。このような画家は、自然が影を生じないか、生じてもほとんど認められないほど淡い影しか生じないところに暗い影を置き、ありえないところに反射光を投げかけることになるであろう。

関連する箇所(英語のページ):

第186章 自然から描くとき光はどれほどの高さであるべきか

自然からよく描くには、光が変わらないように、窓は北向きにすべきである。南向きであれば、太陽が巡っても影が変わらないように紙の覆いをつけなければならない。光の位置は、モデルの高さと同じ長さの影を床に生じるようなものとすべきである。

関連する箇所(英語のページ):

第187章 画家は人物に最も立体感を与えるためにどのような光を用いるべきか

特定の光を受ける人物は、全般的な光を受ける人物より大きな立体感を示す。特定の光は、ある物の光から別の物の影の上に及ぶ反射光を生み、暗い背景から人物を切り離すのを助けるからである。しかし暗く広い空間の前に置かれ、特定の光を受ける人物は、他の物から何の反射も受けることができず、光の当たる部分のほか何も見えず、残りは背景の闇に溶けて失われる。これは、光のごく乏しい夜の主題を模倣するときにのみ用いるべきである。

関連する箇所(英語のページ):

第188章 画家への助言

描くときには、影と影の間に、暗さにおいても形においてもほとんど認められない別の影があることに十分注意せよ。これは第三命題によって証明される。そこには、球形または凸の物体の表面は、まわりの物体がもつのと同じくらい多様な光と影をもつとある。

第189章 影について

自然の中で不定であり、その端をほとんど認められない影は、絵の中でも同じように写すべきであり、決してはっきりと仕上げず、混然と溶け合ったままにしておくべきである。この見かけの無造作は大いなる判断力を示し、自然の観察の巧みな成果となるであろう。

第190章 浮き彫りあるいは自然からの素描に適した光の種類について

影からあまりに明確に分けられた光は、はなはだ悪い効果をもたらす。それゆえこの不都合を避けるために、対象が広々とした田園にあるなら、人物を太陽に照らさせる必要はなく、透き通った雲が間に入っているものと想定すればよい。そうすれば太陽は見えず、影の境界も認められないほど柔らかになるであろう。

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第191章 光を正面から入れるべきか横から入れるべきか、どちらが最も快く優美か

暗い側壁に面した頭部に正面から入れる光は、特にその光が高い位置にあるとき、それらに大きな立体感を与える。その理由は、顔の最も突き出た部分が正面に当たる全般的な光に照らされ、その光は当たる部分にごく淡い影しか生じないが、側面へ回るにつれて部屋の暗い影にあずかりはじめ、それに沈み込むにつれて暗さを増すからである。さらに光が高いところから来ると、顔のあらゆる部分に一様に当たらず、ある部分が別の部分に大きな影を生じる。眉は眼窩全体から光を奪い、鼻は口の大部分から光をさえぎり、顎は首から光をさえぎるなどである。これが最も突き出た部分に光を集中させることで、非常に大きな立体感を生むのである。

第192章 位置による光の違いについて

小さな光は、まわりの物体に大きく明確な影を投じる。反対に大きな光は小さな影を投じ、その影の境界は非常に混然とする。小さいが強い光が、広いがより弱い光に囲まれているときは、太陽のまわりの空のように、後者は前者に対して半調のように見える。そして一方から光を受ける物体は、他方から光を受ける物体に対して半調の役をなす。

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第193章 人物に光を配分する方法

光は、人物に占めさせようとする自然な状況に応じて配分すべきである。日なたにいるものとするなら、影は暗く、光は広く伸び広がり、まわりのすべての物の影が地面にはっきりと記されていなければならない。曇った日に見えるなら、光と影の差はごくわずかで、足元に影はない。屋内に表すなら、光と影は再びはっきりと分かれ、床に影を生じる。しかし窓に紙の覆いがあり壁が白く塗られているものとするなら、効果は光と影の差が少ない曇った日と同じになる。人物が火に照らされているなら、光は赤く力強く、影は暗く、地面や壁の上の影は明確でなければならず、身体から離れるにつれて広く広がることに注意せよ。人物が一部は空に、一部は火に照らされているなら、空から光を受ける側が最も明るく、他方の側は赤みがかって、いくらか火の色を帯びる。とりわけ、人物が広い光を、それも上から受けるように工夫せよ。特に肖像ではそうである。通りで見る人々はすべての光を上から受けるからである。そして興味深いことに、知人の中のどれほどよく知った顔でも、下から照らされると見分けるのが難しくなるのである。

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第195章 顔を描くとき、光と影の扱いによって優美を与える方法

部屋の暗い部分に置かれた顔は、光と影によって大いに優美を増す。顔の影の部分は背景の暗さに溶け合い、明るい部分は外気から明るさを増し受け、こちら側の影はほとんど感じられなくなる。この光と影の増大によって、顔は大きな立体感をもち、大いなる美しさを得るのである。

第196章 顔に優美と立体感を与える方法

第196章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

西へ走る通りで、太陽が南中し、両側の壁が高くて影の側の身体に反射を投じず、空があまり明るくないとき、人物、特に顔に立体感と優美を与えるのに最も有利な状況が見いだされる。顔の両側が壁の影にあずかるからである。鼻の側面と顔の西に向いた部分は明るく、通りの入口の中央に置かれていると想定する人は、自分の前にある顔の諸部分が完全に照らされ、壁に向いた両側が影の中にあるのを見る。さらに優美を加えるのは、これらの影が鋭くも硬くも乾いても見えず、柔らかく溶け合って互いの中に失われることである。その理由は、大気にくまなく広がる光が通りの舗石にも当たり、顔の影の部分に反射して、それをわずかに同じ色合いに染めるからである。一方、上から来る大きな光は家々の屋根に限られて、さまざまな点から顔に当たり、顔の突き出た部分の下の影のほとんど始まるところにまで達する。それは影の強さを少しずつ弱め、光を増しながら顎まで至り、そこで終わって消え、あらゆる側で影へと柔らかく溶け込む。たとえば、その光がA Eであれば、線F Eは鼻の下端まで光を与える。線C Fは下唇にだけ光を与える。しかし線A Hは、影を顔の下の部分すべてと顎の下にまで広げるであろう。

この状況では、鼻はA B C D Eのすべての点から非常に強い光を受ける。

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第197章 物体が互いの上に境界をなすことについて

円筒形または凸の面をもつ物体が同じ色の別の物体の上に境界をなすとき、その縁は境界をなす相手の物体より暗く見える。また平らな物体は、白い面に隣り合うと非常に暗く見えるが、暗い背景の上では、光が等しくても他のどの部分より明るく見える。

第199章 人物を背景から切り離して前へ出す方法

人物が暗ければ明るい背景の上に置き、明るければ暗い背景の上に置け。一般にそうであるように一部が明るく一部が暗ければ、人物の暗い部分が背景の明るい部分の上に来るようにし、明るい側を暗い部分に当てるようにせよ。

第200章 適切な背景について

第200章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

不透明な物体を置く背景の性質をよく考えることは、最も重要である。それを適切に切り離すためには、不透明な物体の明るい部分を背景の暗い部分に当て、暗い部分を明るい背景の上に置くべきである。挿図のとおりである。

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第201章 人物の上に広がる全般的な光について

第201章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

多くの人物と動物の構図では、これらさまざまな物の諸部分は、すべて一様な色であっても、低くなるほど、また群れの中央に近づくほど暗くすべきであることに注意せよ。これが必要なのは、(すべての物体を照らす)空のうち、これらさまざまな人物の間の低い空間に光を与えうる部分は、空間の上部に光を与えうる部分より小さいからである。これは次のように証明される。A B C Dは下にあるすべての物に光を与える空の部分である。MとNは空間S T R Hを占める物体である。そこでは明らかに、空の部分C Dからのみ光を受ける点Fは、空間A B全体(C Dより大きな部分)から光を受ける点Eより受ける光の量が少ない。それゆえEはFより明るいであろう。

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第202章 影の中で遠くから最も暗く見える部分について

第202章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

首、あるいはまっすぐ上に立ち上がっていて、上に突き出た部分をもつ他の部分は、その突き出た部分の垂直な前面より暗い。そしてこの突き出た部分は、光に対してより広い面を向けるのに応じて明るくなる。たとえば凹部Aは空G Kのどの部分からも光を受けないが、Bは空の部分H Kから光を受けはじめ、CはG Kから受け、点DはF K全体を受ける。それゆえ胸は額、鼻、顎と同じくらい明るい。しかし顔について特に勧めたいのは、さまざまな距離で失われる影のさまざまな質をよく観察することである(その間、眼窩や他の同様な凹部のような、常に暗い影の第一の主要な斑点あるいは筆致だけが残る)。そしてついには顔全体が暗くなる。最大の光は(半調に比べて小さいので)失われるからである。それゆえ主要な光と影の質と量は、遠い距離によって一つの全般的な半調に溶け合わされる。木々やその他の物が、ある距離を置くと、目に近いときの実際より暗く見えるのはこのためである。しかしそのとき、物と目の間に入る大気が、それらを青く染めることで再び明るくする。ただしそれは光においてよりも影においてである。光はさまざまな色の真の姿をはるかに長く保つからである。

第205章 物の光に向いた側の輪郭線について

物の光を受ける側の端は、より明るい背景の上では暗く見え、より暗い背景の上では明るく見える。しかしその物体が平らで、光の点で自らと等しく同じ色の背景の上に見えるなら、その境界すなわち輪郭線は視界から完全に失われるであろう。

第206章 物を背景、すなわち描かれている面から切り離す方法

明るい背景と対比された物は、暗い背景に当てられた物よりはるかに切り離されて見える。その理由はこうである。人物に立体感を与えようとするなら、光から最も遠い部分に光を最も少なくあずからせるので、そこは最も暗いままとなり、輪郭線の区別はすべて影の全体の塊の中に失われてしまうであろう。しかしそれに優美と丸みと効果を与えるために、これらの暗い影には常に反射光が伴う。さもなければ影は背景に対してあまりに硬く切れるか、影の類似のために背景に貼りつくかして、背景が暗いほど立体感を失うであろう。ある距離からは明るい部分しか見えなくなるので、人物は背景の中に失われたものすべてを切り落とされたように見えるであろう。

対比と効果

第207章 教え

人物は、特定の小さな光の中よりも、開かれた全般的な光の中に置かれたほうが優美である。力強く広がる光は物を取り巻き包み込むからである。そしてその種の光の中で制作された作品は、遠くに置かれても快く優美に見えるが、狭い光の中で描かれたものは、影の大きな力強さを得るものの、遠くからは描かれた物としか見えない。

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第209章 人物に適した背景について

すべての物体が光と影に取り巻かれていることを経験によって知っているので、私は画家に、照らされた部分が暗いものの上に境界をなすようにし、暗い部分が明るい背景の上に境界をなすように扱ってほしい。これは人物を切り離して前へ出すのに大いに役立つであろう。

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反射光

第211章 明るい背景の上に置かれた物について、またこの実践が絵画に有用な理由

暗みがかった物体が明るい背景の上に境界をなすとき、それは背景から切り離されて見える。曲面をもつ不透明な物体はすべて、光を受けない側が暗く、したがって背景と大いに異なるばかりでなく、曲面の照らされた側でさえ、主要な光を端まで運ばず、背景と主要な光の間に、背景よりもその光よりも暗いある種の半調をもつからである。

第212章 背景の違いによる白のさまざまな効果について

白いものはすべて、暗い背景に対置されるとより白く見え、反対に明るい背景の上ではより暗く見える。これは降る雪を観察すれば学べる。雪は降ってくるとき、空を背にすると、(家の内部の暗さのために)雪を非常に白く見せる開いた窓を背にしたときよりも暗く見える。また、雪は目に近いときには非常に速く大量に降るように見えるが、ある距離を置くとゆっくりと少量降ってくるように見えることにも注意せよ。

第213章 反響について

反響は、滑らかでかなり硬い表面をもつ、明るい性質のすべての物体によって生じる。そのような表面は受けた光をはね返し、向かい合う最初の物に、球のようにはずませるのである。

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第214章 光の反響がありえないところ

硬い物体の表面は、さまざまな質の光と影に取り巻かれている。光には二種類あり、一方は本源の光、他方は派生の光と呼ばれる。本源の光とは、太陽、火の輝き、あるいは大気から来るものである。派生の光は反射した光である。しかし定義に戻って言えば、高い屋根や低い屋根、灌木、草、乾いた木や緑の木のような暗い物体に向いた側には、反射はありえない。なぜなら、これらの物の個々の部分はすべて本源の光に向けられ、それに当たるのであるが、これらの部分がそれぞれ互いの上に生じる影の量があまりに多いので、全体として光が緊密な塊をなさず効果を失い、これらの物は向かい合う物体に光を反射できないからである。

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第215章 反射光がより明るいところとより暗いところ

反射した光は、より暗い背景を背にするか、より淡い背景を背にするかに応じて、多かれ少なかれ目立ち、明るく見える。背景が反射光より暗ければ、色の大きな違いのために反射光は強く見えるからである。反対に、この反射光の背後に自らより明るい背景があれば、すぐそばの明るさに比べて暗く見え、それゆえほとんど認められないであろう。

第216章 影を取り巻く反射した光について

影のただ中に当たる反射した光は、その光の強さと影への近さに応じて、影を明るくし、その暗さを減じる。多くの画家はこの観察を怠り、他の画家はこれに注意してそこから自らの実践を導いている。この意見と実践の違いは芸術家たちの考えを分かち、互いに自分と同じように考え行わないことを非難し合うに至っている。最善の道は中道を進むことであり、その原因がすべての目に明らかなとき以外には反射した光を認めないことである。逆に、まったく入れないのであれば、そのもっともな原因がなかったことが明らかになるようにせよ。そうすれば、まったくの無知から出たものでないかぎり、さまざまな意見によって全面的に非難されることも賞賛されることもなく、両派の賛同を確かに得るであろう。

第217章 反射光が最も目立つべきところ

すべての反射した光のうちで、最も暗い背景から切り離されるものが、最も目立ち、大胆で明確であるべきである。反対に、より明るい背景の上にあるものは目立たなくなる。これは影の対比から生じるものであり、最も淡い影は暗い影をさらに暗く見せる。同様に対比された光においても、最も明るい光は他の光を実際より明るくないように見せるのである。

第218章 反射光のどの部分が最も明るくあるべきか

第218章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

最も等しいに近い角の間で反射した光を受ける部分が、最も明るい。たとえばNを発光体、A Bを物の照らされた部分とする。この部分はその向かいの凹面の影の部分全体に光を反射する。Fに反射する光は等しい角の間に置かれる。しかし底辺のEは等しい角で反射されない。角E A Bが角E B Aより鈍いことは明らかだからである。しかし角A F Bは、角Eより質の劣る角の間にあり、共通の底辺B Aをもつけれども、Eより等しいに近い角の間にある。それゆえFはEより明るくなる。また、光を与える部分により近いので、さらに明るくなる。物体の最も明るい部分は発光体に最も近い部分であるとする第六の規則に従うのである。

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第219章 反射光の背景上の境界について

反射した光の、自らより明るい背景の上にある境界は認められない。しかし反射光が自らより暗い背景の上に境界をなすなら、はっきりと見える。背景が暗いほどいっそうそうであり、その逆もまた然りである。

第220章 光の二重および三重の反射について

第220章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

二重の反射光は一重の反射光より強く、一般の光とこれらの反射光の間に入る影はごく淡い。たとえばAを発光体とすると、A N、A Sは直接の光線であり、S Nはそれらから光を受ける部分である。OとEは、それらの部分におけるその光の反射によって照らされる場所である。A N Eは一重の反射光であり、A N O、A S Oは二重の反射光である。一重の反射光は一つの光から生じ、二重の反射光は二つの異なる光によって生じる。一重のEはB Dに当たる光によって生じ、二重のOは照らされた物体B DとD Rの協働から生じる。そしてN OとS Oの間にある影はごく淡い。

色彩

第222章 最も多くの色を受けるのに最も適した面は何か

白は、透明でないいかなる物体の表面よりも、あらゆる種類の色を受ける能力が高い。これを証明するために言えば、空虚な空間は、空虚でない別の空間が受けられないものを受けることができる。同じように白い面は、空虚な空間のようにいかなる色ももたないので、照らされた他の物体から運ばれる色を受けるのに最も適しており、黒よりも多くその色にあずかる。黒は壊れた器のように、何も入れておくことができない。

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第225章 どの面がその真の本来の色を最も多く示すか

最も滑らかでなく磨かれていない物は、本来の色を最もよく示す。布や、羊毛のような性質の草や木の葉に見られるとおりである。これらには光沢がないので、真の本来の色のまま目に示される。ただし、その色が、相反する色の反射をそれに投じる別の物体の色によって乱される場合は別である。すべての雲がその色に染まるときの夕日の赤さなどがその例である。

第226章 色の混合について

色の混合は、ほとんど記述しえないほど無限の多様性にまで広がりうるものであるが、それに軽く触れることを省くまい。まず基礎となる一定数の単純な色を定め、そのそれぞれに他の色の一つを混ぜ、一対一、次に二対二、三対三と、この順序ですべての色の完全な混合まで進める。それからまた始めて、これらの色の二つを他の二つと混ぜ、三つを三つと、四つを四つと混ぜ、そうして終わりまで進む。これら二つの色に三つを加え、これら三つにさらに三つを加え、次に六つを加え、常に同じ割合で増やしていくのである。

私は、合成されておらず、他の色のいかなる混合によってもつくり出せず補えない色を単純な色と呼ぶ。黒と白は色の中に数えられない。一方は闇を、他方は光を表すものであり、すなわち一方は単なる光の欠如であり、他方は光そのものである。それでもこれらに触れることは省くまい。絵画においてこれほど有用で必要なものはないからである。絵画は光と影、すなわち明暗法によって生み出される効果にほかならないのである。黒と白の次には青と黄が来て、次に緑、黄褐色すなわちアンバー、次に紫と赤が来る。これら八色が、自然の生み出すすべてである。私はこれらから混合を始める。まず黒と白、黒と黄、黒と赤、次に黄と赤である。しかしこれらの混合については別の著作でさらに詳しく論じよう。それは大いに有用であり、いや非常に必要でさえある。私はこの主題を理論と実践の間に置くことにする。

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第227章 他の色の混合によって生じる色、すなわち二次色について

すべての単純な色の第一は白である。もっとも哲学者たちは白も黒も色と認めようとしない。前者は色の原因あるいは受け手であり、後者は色をまったく奪われているからである。しかし画家はどちらなしにも済まないので、これらを他の色の中に置くことにしよう。この順序に従えば、白が第一、黄が第二、緑が第三、青が第四、赤が第五、黒が第六となる。白は、それなしにはいかなる色も見えない光を表すものとし、黄は大地を、緑は水を、青は大気を、赤は火を、黒は完全な闇を表すものとする。

混ぜられた色、すなわち合成された色の多様性を手短な方法で見たければ、色ガラスを何枚か用意して、それを通してあたり一面の景色を眺めるがよい。それぞれの物の色は、それを通して見るガラスの色によって変えられ、混ぜられることがわかるであろう。どの色がその混合によってよくなり、どの色が損なわれるかを観察せよ。ガラスが黄色なら、物の色はそれによって改善されることも、大いに損なわれることもある。黒と白は最も変えられ、緑と黄は改善される。同じようにして、無限にある色の混合のすべてを試すことができる。新しく目に快いものを選べ。同じ方法で二枚、三枚のガラスへと進み、目的に最もかなうものを見つけるまで続けるがよい。

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第228章 緑青について

銅からつくられるこの緑は、油と混ぜても、すぐにワニスをかけなければ美しさを失う。褪せるだけでなく、海綿と清水だけで洗っても、描かれた下地から剥がれてしまう。特に湿った天候のときはそうである。緑青は塩の力によって生じるものであり、塩は雨天にはたやすく溶け、濡れた海綿で洗えばなおさらだからである。

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第229章 緑青の美しさを増す方法

緑青にカバリン・アロエをいくらか混ぜると、大いに美しさが増す。サフランは褪せなければ、さらに美しさを増すであろう。このアロエの質とよさは、温かいブランデーに溶かすことで確かめられる。緑青をすでに用いてその部分を仕上げている場合は、この溶かしたアロエで薄くグレーズするとよく、非常に美しい色を生む。このアロエは油で単独に、あるいは緑青や他の色とともに、望むままに練ってもよい。

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第230章 ほとんど永久に保つ絵の描き方

描こうとする絵の素描をつくったら、ピッチとよく砕いた煉瓦粉で厚くよい下地をつくれ。その後、鉛白とナポリイエローで第二の層を施し、その上に素描を写して絵を描き、澄んだ濃い古い油でワニスをかけ、澄んだワニスで平らなガラスまたは水晶に貼りつけよ。もっとよいかもしれない別の方法は、ピッチと煉瓦粉の下地の代わりに、よくガラス質になった平らなタイルを取り、それに白とナポリイエローの層を施し、残りはすべて前のとおりにすることである。しかしガラスを貼る前に、絵は炉で完全に乾かし、胡桃油と琥珀で、あるいは日光で濃くした精製胡桃油だけでワニスをかけなければならない。

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第231章 カンヴァスすなわち亜麻布への描き方

カンヴァスを枠に張り、薄い膠水を一層施して乾かし、その上に輪郭線を描け。まず肉色を描き、それがまだ新しく湿っているうちに影も描いて、よく和らげ溶け合わせよ。肉色は白、レーキ、ナポリイエローでつくることができる。影は黒、アンバー、少量のレーキでつくる。望むなら黒チョークを用いてもよい。この第一の層、すなわち下塗りを和らげて乾かしたら、その上からレーキや他の色と、ずっと以前につくって液状に保っておいたゴム水で描き直してよい。その状態のゴム水はよりよくなり、光沢を残さないからである。さらに影を暗くするには、上記のレーキとゴムにインクを取るがよい。これでアズールやレーキ、その他いくつかの色に影をつけ、あるいはグレーズすることができる。透明だからである。光については、ゴム水と純粋なレーキ、特に朱で軽く描き直すかグレーズしてよい。

第232章 生き生きとした美しい色について

美しく見せようとする色のためには、純白の下地を準備せよ。これは透明な色についてだけ言うのである。不透明で実体のある色には、どんな下地でも構わず、白い下地は何の役にも立たない。これは彩色ガラスに例証される。目と澄んだ大気の間に置かれると、最もすぐれた美しい色を示すが、背後に濃い大気や不透明な物体があるとそうはならない。

第233章 透明な色について

透明な色を性質の異なる別の色の上に置くと、それを構成する単純な色のどちらとも異なる混合色を生じる。これは煙突から出る煙に認められる。煙は黒い煤の前を通るときは青みがかって見えるが、空の青に向かって昇るにつれ、赤茶色へと様子を変える。同様にレーキを青の上に置くと紫になり、青の上の黄は緑になり、白の上のサフランは黄になり、暗い下地の上にスカンブルした白は青く見え、白と下地の純粋さの度合いに応じて多かれ少なかれ美しくなる。

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第234章 色はどの部分で最も美しく見えるか

ここで考えるべきは、ある色が最も完全な純粋さで現れるのはどの部分か、最も強い光か、最も深い影か、半調か、反射光かである。まず、どの色について論じるのかを定める必要があろう。その点で色によって大いに異なるからである。黒は影の中で最も美しく、白は最も強い光の中で、青と緑は半調の中で、黄と赤は主要な光の中で、金は反射光の中で、レーキは半調の中で最も美しい。

第235章 光沢のない色は、なぜ影の中より光の中で美しいのか

光沢のない物はすべて、影の中より光の中でその色をよく示す。光は色を活気づけ、色の性質の真の知識を与えるが、影はその美しさを下げて損ない、その性質を知るのを妨げるからである。反対に黒が影の中でより美しいとすれば、それは黒が色ではないからである。

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第237章 色のどの部分が最も美しくあるべきか

第237章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

Aを光、Bをそれを一直線に受ける物とすると、Eはその光を受けることができず、ただBからの反射だけを受ける。Bを赤と想定しよう。この場合、それが生じる光は赤いので物Eを赤く染める。Eがもともと赤でもあれば、その色は美しさを増し、Bより赤く見えるであろう。しかしEが黄であれば、赤と黄にあずかる新しい色が見えるであろう。

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第238章 色の美しさは光の中に見いだされること

色の質は光によって目に明らかにされるので、光の最も多いところでその色の真の質も見られると結論するのは当然である。そして影の最も多いところでは、色はその影の色にあずかり、それに染まるであろう。それゆえ、明るい部分においてのみ色の真の質を示すことを忘れてはならない。

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第241章 影の色について

物の影の色は、その影に向かい合う物体が、影の生じる物と同じ色でなければ、決して純粋にはなりえない。たとえば壁の緑色の部屋に、青い衣服を着て別の青い物から光を受ける人物を置くと、その人物の明るい部分は美しい青となるが、その影はくすんで、その美しい青の真の影のようにはならない。緑の壁からの反射によって損なわれるからである。壁が暗い茶色であれば、なおさら悪くなるであろう。

第242章 色について

影の中に置かれた色は、影に沈む度合いに応じて、本来の美しさを多かれ少なかれ保つ。しかし明るい空間に置かれた色は、その光の明るさに応じて本来の美しさを示す。影の色には、それに影を落とされた物の色と同じだけの多様性があると言う者もいる。これには次のように答えられる。影の中に置かれた色は、影が暗いほど、互いの間の多様性を示さなくなる。広場から教会の開いた扉を通して中を見れば、このことの真実はすぐに納得されるであろう。そこでは絵は、多様な色に富んでいても、すべて闇をまとって見えるのである。

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第243章 同じ影によってすべての色が同じに見えることはありうるか

さまざまな色がすべて一つの全般的な影の色に変わることは、十分にありうる。曇った夜の闇の中では物体の形も色も見分けられないことが、それを明らかに示している。完全な闇とは、物体の形と色を見せる本源の光と反射した光の欠如にほかならないから、原因が取り除かれれば結果もやみ、物が視界から完全に失われることは明らかである。

関連する箇所(英語のページ):

第244章 白はなぜ色の中に数えられないのか

白は色ではないが、他のすべての色を受ける力をもっている。田園の高いところに置かれると、その影はすべて青くなる。これは、不透明な物体の表面は光を送る他の物体の色にあずかるとする第四命題に従うものである。それゆえ白は、他の物体が間に入って太陽の光を奪われても白のままである。一方の側が太陽に、他方の側が外気にさらされるなら、太陽の色と大気の色の両方にあずかる。太陽に向かっていない側は大気の色の影となる。そしてもしこの白が地平線まで緑の野に囲まれておらず、地平線から光を受けることもなければ、疑いなく、ただ一つの一様な色、すなわち大気の色に見えるであろう。

関連する箇所(英語のページ):

第245章 色について

火の光はすべてを赤みがかった黄に染める。しかしこれは日の光と比較しなければほとんど明らかにはならないであろう。夕暮れ近くにはこれは容易にでき、朝の薄明の後ならいっそう確実である。また暗い部屋で、わずかな日の光が部屋のある部分に当たり、なおろうそくが燃えているときには、その違いがはっきりと見分けられる。このような試みなしには違いはほとんど認められない。特に、白と黄、明るい緑と明るい青のように最もよく似た色ではそうである。青に当たる光は黄色なので、当然それを緑に変えるからである。別の箇所で述べたように、青と黄の混合は緑を生むのである。そして緑色に黄を加えると、より美しい緑となる。

第246章 遠い物の彩色について

目からある距離にある物を表す画家は、全体の不定な塊の観念を伝えるだけにとどめ、そのために曇った天気か夕方近くを選び、先に述べたように、端に光と影を強く記しすぎるのを避けるべきである。そうすれば、それらは描きにくく優美を欠く斑点のように見えるからである。また画家は、色のついた物体が完全な闇の中にあるのでないかぎり、影がその生じたもとの固有の色を消し去るような質のものであってはならないことを忘れてはならない。輪郭線を記してはならず、髪を糸のように描いてはならず、本来白いもの以外には純白で触れてはならない。要するに、ある物に加える最も明るい一筆は、その固有の本来の色の美しさを示すものでなければならない。

第247章 すべての不透明な物体の表面は、まわりの物の色にあずかること

第247章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

画家は次のことを知っておくべきである。白い物を二つの壁の間に置き、一方の壁も白く他方の壁が黒いなら、その物の影の側と明るい側の間に、二つの壁の間と同様の比が見いだされる。その物が青であっても効果は同じである。それゆえこの物を描くには、反射光の来る壁の黒に似た黒を取れ。確実で学理にかなった方法で進めるには、次のようにせよ。壁を描くときは、色調を混ぜるのに用いる色の量を正確に測るために、小さな匙を用いよ。たとえばこの壁の影に純粋な黒を三匙と白を一匙入れたなら、疑いなく確かで精密な質の混合が得られる。さて一方の壁を白く、他方を暗く描いたら、その間にその色にふさわしい影をもつ青い物を置こうとするなら、まずパレットの上に、望みどおりの明るい青を影を何も混ぜずに置け。これが物の最も明るい部分に役立つ。その後、最も暗い影のために、黒を三匙とこの明るい青を一匙取れ。それから物が丸いか四角いかを観察せよ。四角ければ、光と影のこの二つの両極の色調は隣り合い、角で鋭く切れる。しかし丸ければ、壁の両端から物の中心へ線を引き、それらの線がその表面で交わるところ、等しい角の間に最も暗い影を置け。そして点N Oまで少しずつ明るくしはじめ、その場所が光A Dにあずかる分だけ影の強さを減じ、同じ割合でその色を最も暗い影A Bと混ぜるのである。

第248章 色についての一般的な所見

青と緑は、その性質において単純な色ではない。青は光と闇からなるからであり、空の青がそうで、すなわち完全な黒と完全な白からなる。緑は単純な色と混合色からなり、青と黄によって生じる。

鏡に見える物は、鏡の役をする物体の色にあずかる。そして鏡のほうもまた、それが映す物の色に一部染められる。見える物の色が鏡の色より強いか弱いかに応じて、互いに多かれ少なかれあずかり合うのである。鏡の色そのものに最も近い色の物が、鏡の中で最も強く生き生きとした色に見えるであろう。

色のついた物体のうち、最も純粋な白は最も遠くから見える。それゆえ色が暗いほど、距離に耐えない。

白さが等しく目からの距離も等しいさまざまな物体のうち、最も大きな闇に囲まれたものが最も白く見える。反対に、最も明るい白をまわりにもつ影が最も暗く見える。

等しく完全なさまざまな色のうち、自らの正反対の色の近くに見えるものが最もすぐれて見える。赤に対する淡い色、白の上の黒(どちらも色ではないが)、黄の近くの青、赤の近くの緑がそれである。それぞれの色は、自らに似た他のどの色よりも、正反対の色に対置されたときによりはっきり見えるからである。

水蒸気に満ちた濃い大気の中に見える白いものは、実際より大きく見える。

目と見られる物の間の大気は、その物の色を自らの色に変える。大気の青が遠くの山々を青い塊に変えるのがそれである。赤いガラスを通すとすべてが赤く見える。星のまわりの光は、目と惑星の間の空間を満たす大気の暗さによって曇らされる。

いかなる物であれ、その真の色は、どんな種類の影にも占められず、(磨かれた面であれば)光沢もない部分に見られる。

白が暗い背景の上で不意に境界をなすと、その境界の部分はより暗く、白はより白く見える、と私は言う。

光と影に関する色彩

第249章 自然から肉色を描くのに適した光について

窓は空に向かって開き、壁は赤みがかった色に塗らなければならない。夏が最もよく、雲が太陽を隠しているときがよい。さもなければ部屋の南側の壁を高くして、日光が反対側に当たらないようにしなければならない。その光線の反射が影を損なわないようにするためである。

第250章 画家の窓について

画室に光を与える窓は油紙でつくり、開口部に横桟や突き出た縁を設けず、壁の内側に鋭い角も設けず、壁の厚み全体にわたって徐々に斜めにし、側面を黒く塗るべきである。

第251章 色の影

いかなる色であれ、その影は、影の塊に近いか遠いかに応じて、また光の塊からの距離に応じて、多かれ少なかれその色にあずからなければならない。

第252章 白の影について

太陽や大気から光を受ける白い物体には、影を青みがかった色調にすべきである。白は色ではなくすべての色の受け手であり、第四命題によって、物の表面はその近くの他の物の色にあずかることを学ぶから、白い面がそれを取り巻く大気の色にあずかることは明らかだからである。

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第253章 どの色が最も暗い影を生じるか

最も白い面によって生じる影が最も暗い。この面はまた他のどの面より多様性への傾きが大きい。白は本来の意味での色ではなく色の受け手であり、その面はまわりの物の色に強くあずかるが、とりわけ黒やその他の暗い色にあずかるからである。それらはその性質に最も相反するので、影と光の間に最も感じられる違いを生む。

第254章 白が別の白の上に境界をなすときの扱い方

一つの白い物体が同じ色の別の物体の上に境界をなすとき、この二つの物体の白は同じであるか否かのいずれかである。同じであれば、二つのうち目に最も近い物を、輪郭線の丸みのところで他方より少し暗くすべきである。しかし他方の背景となる物がそれほど白くなければ、前者は、より暗い境界の助けなしにおのずと切り離される。

第255章 人物の背景について

等しく明るい二つの物のうち、一方はより白い背景の上に見れば明るさが減じて見え、反対に、より暗い影の空間の上では、はるかに明るく見える。同様に肉色は赤い背景の上では青白く見え、淡い色は黄色い背景の上ではより赤く見える。要するに、色はそれを取り巻く背景に応じて、実際とは異なって見えるのである。

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第256章 物語の構図の仕方

物語画を構成する人物のうち、目に最も近く見せようとするものは最大の力強さをもたなければならない。これは第三の書の第二命題に従う。そこには、見る者の目との間に入る大気が少ない色は、最も完全に見えるとある。そのため(物体の立体感を表す)影は、遠くにあるときより近くにあるときのほうが暗く見える。遠くでは間に入る大気によって弱められるからである。目に近い影にはこれが起こらず、そこでは影が最も暗いとき最大の立体感を生む。

第257章 光と影に関する所見

影の終わるところには、影を光と溶け合わせる一種の半影が常にあるようにせよ。物から派生する影は、その物から遠ざかるのに応じて、境界で光とより多く混じる。しかし影の色は決して単純ではない。これは第九命題によって証明される。そこには、物の表面は、水や大気などのように透明であっても、それを取り巻く他の物体の色にあずかるとある。大気は太陽から光を受け、闇はその欠如によって生じるからである。しかし大気は水と同じくそれ自体に色をもたず、物と目の間にあるすべての色を受ける。地に近い下層で大気に混じる水蒸気は大気を濃くし、太陽の光線をあらゆる側に反射しやすくするが、上の大気は暗いままである。そして光(すなわち白)と闇(すなわち黒)が混じり合って、空の色となる青をつくる。その青は、大気が湿った水蒸気と混じる度合いに応じて明るくも暗くもなる。

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第258章 夕方近く、白い壁の上の物体の影はなぜ青みがかるのか

第258章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

夕日の赤さによって生じる物体の影は、常に青みがかっている。これは第十一命題によって説明される。そこには、不透明な物体の表面は光を受ける物の色にあずかるとある。それゆえ白い壁は色をまったくもたないので、光を受ける物体の色に染められ、この場合それは太陽と空である。しかし夕方近くには太陽は赤く、空は青いので、太陽に照らされていない壁の影は空の反射だけを受け、それゆえ青く見える。そして太陽から直接光を受ける壁の残りの部分は、その赤い色にあずかるのである。

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第259章 顔の色について

物の色は、その面の広がりに応じて、多かれ少なかれはっきりと見える。この比は、顔がわずかな距離で暗く見えることを観察すれば証明される。顔は多くの小さな部分からなるので多数の影を生じ、光はその最も小さな部分なので最も早く視界から失われて影だけが残る。そして影のほうが量が多いので顔全体が暗く見え、頭や背中により白いものがあれば、なおさらそう見えるのである。

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第260章 絵画に関する教え

影が光の上で終わるところでは、その部分のどこが他より明るいか、どこがより多く、あるいはより少なく和らげられ溶け合わされているかをよく観察せよ。しかしとりわけ、若者には鋭い影がないことを忘れてはならない。その肉は透き通っており、太陽と目の間に手をかざしたときに見られるものに似て、赤みがかって透明な明るさを帯びている。描いている肉色にどのような影が合うかを知りたければ、指の一本を絵の近くにかざして、絵の上に影を落とし、明るくしたいか暗くしたいかに応じて近づけたり遠ざけたりして、それを模倣せよ。

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第261章 影の中の色について

不透明な物体の影が光と同じ色を保たないことは、非常にしばしば起こる。この不透明な物体が全体に一様な色であっても、光が赤みがかっている一方で、影が緑がかることもある。これは光が物に(東からとしよう)当たり、その側を自らの色に染めるときに起こる。西に、最初の物体と異なる色で同じ光を受ける別の不透明な物体があるとしよう。この後者は自らの色を東へ反射し、反対の側で最初の物体に光線を当て、光線はそこで止まって、その色と明るさのすべてを保つ。白い物が赤い光と青みがかった影をもつのをわれわれはしばしば目にする。これは特に、日没時に雪に覆われた山々に認められる。そのとき太陽の光線の輝きが地平線をすべて火のように見せるのである。

第262章 光の選択について

表そうとするどんな物も、ある特定の光の中に置かれていると想定すべきであり、その光はまったく自分で選べばよい。そうした物が田園にあり、太陽が雲に覆われていると想像するなら、物は大量の全般的な光に取り巻かれる。太陽がその物に当たるなら、影は光に比べて非常に暗く、一次の影も二次の影も明確で鋭い。これらの影は光と色が異なる。その側では物は大気の青から反射した光の色合いを受け、それがその部分を染めるからであり、これは特に白い物に認められる。太陽から光を受ける側は、その色にもあずかる。これは特に、太陽が雲の間に沈み雲を赤く染める夕方に認められる。雲はそれを照らす物体の色に染められ、雲の赤い色が太陽の色とともに、そこから光を受ける部分に色合いを投げかける。反対に空のその側に向いていない部分は大気の色のままで、前者と後者は二つの異なる色となる。これを見失ってはならない。これらの光と影の原因を知って、それを効果の中に明らかにしなければ、作品は偽りで不合理なものとなるであろう。しかし人物が家の中にいて外から見られるなら、その人物の影は非常に柔らかい。見る者が光の線上に立つなら、それは優美を得て画家の名誉となるであろう。光に大きな立体感をもち、影は柔らかくよく溶け合っているからである。特に部屋の内部があまり暗く見えない部分ではそうで、そこでは影はほとんど認められない。その原因はしかるべき箇所で説明しよう。

背景に関する色彩

第264章 輪郭線について

ある距離にある物の端は、近いときほどはっきりとは見えない。それゆえ画家は、輪郭線すなわち端の強さを距離に応じて加減すべきである。

一つの物体を別の物体から分ける境界は、数学的な線の性質をもつのであって、現実の線ではない。ある色の終わりは別の色の始まりにすぎず、これを線と呼ぶべきではない。両者の間には、互いに接する境界のほか何も入らず、その境界はそれ自体無であって認められないからである。それゆえ画家は、遠くの物においてこれをはっきり示すべきではない。

第265章 背景について

絵画の主要な部分の一つは背景の性質と質である。凸の物体や立体の端は、そうした物の色と背景の色がまったく同じであっても、自然の中では背景の上で常に切り離されて見分けられる。これは立体の凸の側面が背景と同じようには光を受けないから起こるのであって、そうした側面や端は背景よりしばしば明るいか暗いかである。しかしそうした端が背景と同じ色で、同じ度合いの光の中にあるなら、確かに見分けることはできないであろう。それゆえ絵画におけるそのような選択は、知性と判断力のあるすべての画家が避けるべきである。物をいわば背景から出てくるように見せることが目的だからである。上の場合は、絵画においてばかりでなく現実の立体においても、反対の効果を生むであろう。

関連する箇所(英語のページ):

第266章 人物を背景から切り離す方法

すべての立体は、色の定まらない背景の上で、その物体の境に最も多様な光と影があるとき(しかるべき箇所で論証するとおり)、より大きな立体感をもち、画布からより多く出てくるように見える。ただし白い色調における光と、影における暗さの適切な減少が、賢明に守られることが条件である。

第268章 影にも光にも適した背景について

人物やその他の物を取り巻く影や光は、それらの物と異なるほど、切り離すのに役立つ。すなわち暗い色は別の暗い色の上にではなく、それとは大いに異なる色、たとえば白、あるいは白にあずかりながらも抑えられて暗い影に近づけられた色の上に境界をなすようにする。

第269章 置かれた背景の対比によって生じる色の見かけの変化

いかなる色も、同じ色の背景の上に境界をなすのでないかぎり、そのすべての部分で一様に等しくは見えない。これは黒が白い背景の上に境界をなすときに非常に明らかで、そこでは色の対比が、中央より端に、より大きな強さと豊かさを与えるのである。

色彩に関する対比、調和、反射光

第270章 絵画における階調

華麗なものが常に美しくよいとは限らない。私はこれを、色彩の美しさにあまりに執着して、それにほとんど認められないほどの影を与えねばならないことを悔やみ、影の適切な階調と強さによって人物が得る美しい立体感を考えようとしない画家たちに向けて言うのである。こうした人々は、会話で意味のない美しい言葉を多く用いながら、全体としてほとんど一つのよい文もなさない話し手にたとえられる。

第271章 色が互いに美しさを加え合うように組み合わせる方法

ある色の隣にあることで、その近くに接する別の色に美しさを与えたいと望むなら、虹の構成における太陽の光線を観察せよ。虹の色は降る雨によって生まれ、しかるべき箇所で論証するとおり、落ちていく一滴一滴がその弧のあらゆる色を帯びるのである。

大きな闇を表そうとするなら、大きな光と対比させることによってなさねばならない。反対に大きな明るさを生みたいなら、それに非常に暗い影を対置しなければならない。同様に、淡い黄は赤を、紫に対置したときより美しく見せるであろう。

もう一つの規則がある。これを守れば、色の本来の美しさを増すことはないにせよ、それらを並べることで互いにさらに優美を加えることができる。緑を赤の近くに置く場合がそれであり、青の近くに置くなら効果はまったく逆になるであろう。

調和と優美は、青と淡い黄や白などのような賢明な色の配置によっても生じる。しかるべき箇所で触れるとおりである。

関連する箇所(英語のページ):

第272章 人物を切り離すことについて

人物の衣文を構成する色は、快い変化をなして互いに区別されるようなものとせよ。調和のために同じ性質のものであるべきだとしても、互いに貼りついてはならず、それらの間の距離と大気の介在に応じて、光の点で変化をもたせなければならない。同じ規則によって、輪郭線はその距離の遠近に応じて、より明確にするか、失わせるかすべきである。

第275章 反射光について

反射光は、それを生じる物の色と、それが生じる先の物の色の両方に多かれ少なかれあずかり、それはこの後者の物体の面が、反射光を生じる物より滑らかで磨かれている度合いに応じる。

第276章 影の中にあるすべての物体の表面について

影の中に置かれた不透明な物体の表面は、それに光を反射する他の物の色にあずかる。これは非常に明らかである。もしそうした物体が、自らと他の物体の間の空間で光を奪われているなら、形も色も示すことはできないはずだからである。それゆえ次のように結論しよう。不透明な物体が黄で、光を反射するものが青であれば、反射された部分は緑となる。緑は青と黄からなるからである。

第277章 反射した色は単純ではなく、他の色の性質と混じっていること

第277章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

別の物体の表面に反射した色は、その表面を自らの色だけで染めることはなく、同じ箇所に同じく反射した他の色の協働によって混じる。Aを黄色とし、それが凸面C O Eに反射し、青色Bが同じ場所に反射すると想定しよう。青と黄の色の混合がその凸面を染めるのであり、背景が白ければ緑の反射を生じる、と私は言う。青と黄の混合が非常に美しい緑を生むことは証明されているからである。

第278章 光と反射光の色について

二つの光が不透明な物体に当たるとき、それらが異なりうるのは二通りだけである。すなわち強さが等しいか、等しくないかである。等しい場合でも、さらに二通りに異なりうる。すなわち明るさの等しさまたは不等によってである。距離が同じであれば等しく、そうでなければ不等である。色においても明るさにおいても等しい二つの光の間で等しい距離に置かれた物は、それでもなお二通りに照らされうる。すなわち両側で等しくか、不等にかである。光のまわりに残る空間が、色においても影の度合いにおいても明るさにおいても等しいときには、等しく照らされる。それらの空間の暗さの度合いが異なるときには、不等に照らされる。

第279章 反射した色が、それの出会う物体の色にあずかることがまれな理由

第279章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

反射光が、それの発する物体や、それの出会う物体と同じ色であることはきわめてまれである。これを例証するために、凸の物体D F G Eを黄色とし、それに自らの色を反射する物体B Cを青とする。その反射した光に当たる凸面の部分は緑の色調を帯びる。B Cは大気あるいは太陽の本来の光を受けているのである。

第280章 肉色の反射光

別の肉色の物体に当たる光によって反射された、肉色の上の光は、人の姿の他のどの部分よりも赤く生き生きとしている。これは第二の書の第三命題に従って起こる。そこには、不透明な物体の表面は、光を反射する物の色に、その近さ遠さに応じて、またその大きさに応じてあずかるとある。その物が大きければ、まわりの小さな物の色の多様性が、より近くにある主要な色に干渉し乱すのを防ぐからである。とはいえ、遠くの大きな物の色より、近くの小さな物の色により多くあずかることを妨げはしない。遠近法の第六命題を見よ。そこには、大きな物も、近くの小さな物より小さく見える距離に置かれうるとある。

第282章 反射光の見えるところ

形、大きさ、強さの同じすべての反射のうちで、より暗い背景の上に境界をなすものはより強く、より暗くない背景の上に境界をなすものはより弱い。

最も等しいに近い角で反射を受ける物体の面は、それを反射する物の色に最も多くあずかる。

向かいの面に等しい角で反射された物の色のうち、反射の光線が最も短いものが最も明瞭である。

等しい角と等しい距離で向かいの物体に反射されたすべての色のうち、最も明るい色の物体によって反射されるものが最も強い。

自らの色とぶつかる色をまわりにもたない物は、向かいの物に自らの色を最も明確に反射する。したがって、異なる色のさまざまな物体から発する反射色は最も混然としている。

向かい合う物に最も近い色は、それを最も強く染める。その逆もまた然りである。それゆえ画家は、人体、特に肉色の上の反射光に、それに最も近い衣文の色をいくらか混ぜよ。しかし十分な理由がなければ、それをはっきり示しすぎてはならない。

色彩遠近法

第283章 絵画に関する遠近法の教え

大気のある特定の性質のために、物の光と影の違いをもはや見分けられないときは、影の遠近法を捨てて、線遠近法と色の減少だけを用い、目に向かい合う物の認識を減じてよい。そしてこのこと、すなわち各々の物の形の認識を失うことは、同じ物をより遠く見せるであろう。

目は、色彩遠近法に助けられないかぎり、線遠近法だけでは、さまざまに離れた二つの物の間隔を完全に知ることは決してできない。

第284章 色彩遠近法について

第284章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

大気は地平線に近づくにつれて、空の青にあずかることが少なくなる。これは第三および第九命題によって証明されている。すなわち(大気を構成するような)純粋で微細な物体は、より厚く粗い実質の物体より太陽に照らされることが少ない。そして地から遠い大気がそれに近い大気より薄いことは確かであるから、後者は太陽の光線をより多く含むことになる。太陽の光線はこの大気に浮かぶ無数の微粒子に同時に光を与え、大気を目により感じられるものにする。こうして大気は地平線に向かっては明るく見え、空を見上げると暗くかつ青く見える。われわれの目と頭上の空のあの部分との間より、われわれの目と地平線との間のほうに、より多くの濃い大気があるからである。

たとえばPに置かれた目が大気を通して線P Rに沿って見て、次に少し下げてP Sに沿って見ると、大気は少し白く見えはじめる。この空間には最初の空間より多くの濃い大気があるからである。さらに下げて地平線をまっすぐ見ると、最初の線P Rに沿って認められたあの青い空はもはや認められない。水平線P Dに沿っては、斜めのP Sや垂直のP Rに沿ってよりもはるかに多量の濃い大気があるからである。

関連する箇所(英語のページ):

第287章 距離の遠近に応じて色に認められる多様性について

大気より暗い物の固有色は、遠ざかるにつれて暗さが減じて見える。反対に、大気より明るい物は目からの距離に応じて明るさを失う。一般に、大気より暗いか明るいすべての物は距離によって色を失い、その質が変えられて、明るいものは暗く、暗いものは明るく見える。

第288章 色が完全に失われる距離

固有色は、目と物が地面からどれほど高いかに応じて、より遠い距離で、あるいはより近い距離で完全に失われる。これは第七命題によって証明される。そこには、大気は地に近いか遠いかに応じて純粋さの度合いが異なるとある。それゆえ目と物が地に近ければ、間に入る大気の濃さが、その物の色を目に対して大いに乱す。しかし目と物が地面から高いところにあれば、大気がその物の本来の色を乱すことはごくわずかである。要するに、色のさまざまな階調は、色の失われうるさまざまな距離だけでなく、一日の時刻によって変わる光の多様性と、物の色が目に運ばれる大気の濃さや純粋さにもよるのである。

関連する箇所(英語のページ):

第289章 目からの距離に応じて同じ色に認められる変化について

同じ性質のいくつかの色のうち、目に最も近いものが最も変化しない。目と見られる物の間に入る大気は、ある程度その物を包むからである。間に入る大気が多量であれば、見られる物はその大気の色に強く染まる。しかし大気が薄ければ、その物とその色を見ることはごくわずかしか妨げられない。

関連する箇所(英語のページ):

第291章 距離によって最初に失われる面の性質について

どの色であれ、距離によって最初に失われる部分は光沢である。これはその最も小さな部分で、光の中の光である。さらに遠ざかることで第二に減じるのは光であり、その量は影より少ないからである。第三は主要な影であり、最後には一種の中くらいの暗さのほか何も残らない。

第292章 大気の青はどのような原因から生じるか

空の青は、上方の広がりの闇と下方の地との間に入り、太陽に照らされた大気の透明な物体によって生じる。大気はそれ自体に匂いも味も色も性質としてもたないが、まわりの他の物質の性質を容易に帯びる。そして背後の空間の暗さに応じてより青く見える。これは他のどの物より暗い山々の影の側に対して認められるところである。この場合、大気は最も美しい青に見えるが、光を受ける反対の側では、大気を通して山の本来の色がより多く現れる。

第293章 色彩遠近法について

第293章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

同じ色をさまざまな距離に等しい高さで置くと、その彩色の力と効果は、これらの色のそれぞれから目までの距離の比に従う。これは次のように証明される。C B E Dを同じ一つの色とする。第一のEは目Aから距離二度に置かれ、第二のBは四度、第三のCは六度、第四のDは八度である。線A Rの上で終わり、それと交わる円によって示されるとおりである。空間A R、S Pが薄い大気一度、S P E Tがより濃い大気のもう一度であると想定しよう。すると第一の色Eは濃い大気一度E Sと、より薄い大気のもう一度S Aを通って目に達することになる。そしてBは濃い大気二度と、より薄い種類の大気二度を通って、Aにある目へ自らの色を送る。Cは薄い種類を三度、濃い種類を三度通して送り、Dは一方を四度、他方を四度通る。これは、色の階調が目からの距離に比例することを論証している。しかしこれは目と同じ高さにある色についてのみ起こる。異なる高さにある色については同じ規則を認めることはできない。その場合それらは異なる質の大気の中にあり、大気がこれらの色をさまざまに変え減じるからである。

関連する箇所(英語のページ):

第295章 色彩遠近法について

主要な色、すなわち目に最も近い色は純粋で単純であるべきであり、その減少の度合いは距離に比例すべきである。すなわち主要な点に近いほどその色の純粋さを多く保ち、地平線に近づくのに応じてその色にあずかる。

第296章 色について

青でないすべての色のうち、黒に最も近いものは遠ざかると最も多く青にあずかる。反対に、黒に最も似ていないものは最も遠い距離まで固有の色を保つ。

それゆえ野の緑は、黄や白より早く青に変わる。黄や白はそれより、また赤よりさえ遠い距離まで本来の色を保つのである。

第297章 異なる質の大気の中に置かれても色が変わらないことがどうして起こるのか

距離と大気の質が相互に比例するとき、色は何の変化も受けない。距離によって失うものを大気の純粋さによって取り戻すのである。すなわち第一の最も低い大気が四度の濃さをもち、色が目から一度のところにあり、その上の第二の大気が三度をもつと想定しよう。大気が一度の濃さを失ったので、色は距離について一度を得る。さらに高い大気が二度の濃さを失ったときは、色は距離について同じだけ得る。その場合、色は三度のところでも一度のところと同じである。しかし手短に言えば、色が高く上げられて、濃さの三度を失い距離の三度を得た質の大気に入るならば、高く遠いその色は、低く近い色より多くを失っていないと確信してよい。上がることで、目から同じだけ離れることによって失っていた三度を得たからである。これが証明すべきことであった。

第298章 異なる質の大気の中に置かれても色に見かけの変化が起こらない理由

第298章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

大気の濃さと距離が同じ反比例の関係にあるとき、異なる距離に置かれても色が変わらないことが起こりうる。これは次のように証明される。Aを目とし、Hをどの色でもよいから、濃さ四度の質の大気の中で、目から距離一度のところに置く。しかしその上の第二の度A M N Lは半分の薄さの大気を含み、その大気がこの色を運ぶので、この色は以前の二倍の距離へ、すなわち目から距離二度A FとF Gのところへ遠ざかったように見えることになり、Gに置かれる。それが大気の第二の度A M N Lへ、さらに度O M、P Nへと上げられると、必然的にEに置かれ、線A Eの全長だけ目から離れる。この線が濃さにおいて距離A Gに等しいことは次のように証明される。同じ質の大気の中で、目と色の間に入る距離A Gが二度を占め、A Eが二度半を占めるなら、色GをEへ上げても変化を防ぐのにそれで足りる。度A Cと度A Fは濃さが同じで等しく同様であり、度C Dは長さでは度F Gに等しいが、大気の濃さの点では同様でないからである。その半分は上の大気の二倍の濃さの大気の度の中にあるのである。この距離の半度は、上の大気のまる一度が占めるのと同じだけの色を占める。上の大気はそれと接する下の大気の二倍薄いからである。こうして大気の濃さと距離を計算すれば、色はその美しさに何の変化も受けずに場所を変えたことがわかるであろう。これを次のように証明しよう。まず大気の濃さを数えると、色Hは濃さ四度の中に、色Gは二度の中に、Eは一度の中に置かれている。さて距離が等しい反比例にあるかどうかを見よう。色Eは距離二度半に、Gは二度に、Hは一度にある。しかしこの距離は大気の濃さと正確な比例にないので、次のように第三の計算をする必要がある。A CはA Fと完全に同様で等しい。半度C BはA Fと同様であるが等しくない。その長さは半度にすぎず、それは上の大気の質のまる一度に等しいからである。この計算によって問題は解ける。A Cは上の大気の濃さ二度に等しく、半度C Bは同じ上の大気のまる一度に等しい。そしてもう一度、すなわちB Eを加えると、これで第四となる。A Hは大気の濃さ四度をもち、A Gも四度をもつ。すなわちA Fは値にして二、F Gも二で、合わせて四となる。A Eも四度をもつ。A Cが二度を含み、C DがA Cの半分で同じ質の大気の中にあって一度を含み、上の薄い大気の中にまる一度があって、すべて合わせて四となるからである。こうしてA Eは距離A Gの二倍でも距離A Hの四倍でもないとしても、上の薄い大気のまる一度に等しい濃い大気の半度C Bによって等価にされる。これは、色H G Eがこれらの異なる距離によって何の変化も受けないという命題の真実を証明している。

第300章 目から遠い物の色について

大気は、目との間に入る大気の量に応じて、物を多かれ少なかれ自らの色に染める。したがって二マイルの距離にある(あるいはそれに等しい濃さの大気を隔てた)暗い物は、一マイルしか離れていない場合より多くその色に染まる。

風景の中で同じ種類の木々は、近くより遠くのほうが暗く見えると言われる。これは同じ大きさで等しい間隔で隔てられているなら真実ではありえない。しかし最初の木々がまばらで、野の光がそれらを通してその間に見え、より遠くの木々が密集しているなら、そうなるであろう。これは川やその他の水辺の近くにしばしばあることで、この場合には明るい野の空間は認められず、木々は密集して互いの上に影を積み重ねて見える。また、植物の影の部分は明るい部分よりはるかに広いので、影が重なって暗くなった植物の色は保たれ、他の部分より強く目に運ばれることも起こる。それゆえこれらの塊は、色の最も強い部分をより遠い距離へ運ぶのである。

第301章 山の色について

山はそれ自体が暗いほど、遠い距離では青く見える。最も高い部分は森が多いので最も暗い。森は多くの灌木やその他の植物を覆い、それらは決して光を受けないからである。こうした森の野生の植物も、本来、栽培植物より色合いが暗い。樫、橅、樅、糸杉、松の木は、オリーブやその他の栽培された植物よりはるかに暗いのである。これらの山の頂近くでは、大気が薄く純粋なので、森の暗さは、大気の濃い麓より深い青に見せる。植物は、それが立つ地面が自らに似た色であれば、ほとんど切り離されて見えない。そして逆に、白い物のうち暗い物に最も近い部分は最も白く見え、それから離れるにつれて白さを減じる。また暗い物は白い物に近いほど暗く見え、それから離れるにつれて暗さを減じる。

第302章 見かけは暗いが実際は暗くないある状況で、物の色と形が失われるのはなぜか

明るいのに暗く見え、そこでは物が形も色も奪われる状況がある。これは間に入る大気に満ちる大きな光によって起こる。目からある距離を置いて窓の中をのぞき込むと、一様な暗みがかった影のほか何も見えないことに認められるとおりである。しかし家の中に入ると、その部屋が光に満ちていることに気づき、すぐに窓の中のどんな小さな物も見分けられるであろう。この効果の違いは大気の大きな明るさによって生じる。それは目の瞳孔を大いに縮め、そうすることでその力を減じる。しかし暗いところでは瞳孔が広がり、大きさの増す分だけ力を得る。これは私の遠近法の第二命題で証明されている。

第303章 絵画のさまざまな教え

諸部分の境界と形は一般に、光の大きな塊の中でも影の大きな塊の中でもごくわずかしか見えない。しかし光と影の両極の間にあるものは最も明瞭である。

遠近法は、絵画に関するかぎりでは、三つの主要な部分に分けられる。第一は距離に応じた大きさの減少にあり、第二はそうした物の色の減少に関わり、第三はそれらの物の知覚全体の減少と、さまざまな距離でそれらが示すべき明確さの度合いを扱う。

空の青は光と闇からなる混合によって生じる。光と言うのは、大気に浮かんで光を反射する湿った粒子のためである。闇と言うのは、光線を止めて反射するこれらの異物をもたない純粋な大気のことである。その例は、目と暗い山々の間に入る大気に見られる。山々は無数の木々の影によって暗くされているか、さもなければ太陽の光線の自然な欠如によって一方の側が影になっている。この大気は青くなるが、山の明るい側では、特に雪に覆われているときにはそうならない。

暗さも距離も等しい物のうち、より明るい背景の上に境界をなすものはより暗く見え、その逆もまた然りである。

最も多くの白と最も多くの黒で描かれた物は、他のどの物より大きな立体感を示す。それゆえ私は画家に、人物を最も明るく生き生きとした色で彩り、着飾らせることを勧めたい。鈍い色や暗い色で描くと、ほとんど切り離されて見えず、絵をある距離に置くとあまりよく見えないからである。あらゆる物の色は影の中で暗くされるので、もともと全体がそのような色として表されるなら、光と影の間の違いはごくわずかとなるが、生き生きとした色は著しい違いを示すのである。

空気遠近法

第304章 空気遠近法

空気遠近法と呼ばれる別の種類の遠近法がある。大気の違いによって、同じ線上に見える異なる物の距離を容易に定められるからである。たとえば壁の後ろにあり、その上にすべて同じ高さに見える建物がそれである。絵の中で一つの建物を他より遠く見せたければ、まず大気をいくらか濃いものと想定しなければならない。先に述べたように、そうした大気の中で遠くに見える物は、山々のように、目と山々の間に入る多量の大気によって大気のように青みがかって見えるからである。それから壁の後ろの最初の建物を固有の色で描け。距離の点で次の建物は輪郭線をより不明瞭にし、大気の青みがかった色により多くあずからせよ。さらにその分だけ遠くへやりたい別の建物は、その分だけ青く描け。そして壁の向こうへ五倍遠くに見せたい建物があるなら、五倍多くの青をもたせなければならない。この規則によって、すべて同じ大きさで同じ線上に見えていた建物が、異なる寸法で異なる距離にあることがはっきり認められるであろう。

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第305章 絵画では最も小さな物の部分が最初に消えること

目から遠ざかる物のうち、最も小さなものが最初に視界から失われる。そこから、最も大きなものが最後に消えることになる。それゆえ画家は、非常に遠い物の諸部分を仕上げるべきではなく、第六の書に与えた規則に従うべきである。

町やその他の目から遠い物を表すのに、建物のあらゆる部分を非常に近くにあるかのように表す者のなんと多いことか。自然ではそうではない。遠い距離で物の部分や端の正確な形をはっきりと認められるほど強い視力はないからである。それゆえ、何人もの者がしたように輪郭線や諸部分の細かな区別をはっきり示す画家は、遠い物を表したことにならず、この誤りによってそれらを非常に近く見せることになる。また、遠い町の建物の角も表してはならない(見えないのであるから)。角は二本の線が一点に集まることで生じるものであり、点には部分がないから見えないのである。

第306章 小さな人物は仕上げすぎてはならないこと

物は目から遠いとき、実際より小さく見える。また多くの大気が間に入り、形の見え方を弱め、その自然な結果として、そうした物の細かな部分をはっきり見ることを妨げる。それゆえ画家は、それらの部分に軽く、未完の手法で触れるべきである。さもなければ、自らの案内として選んだ自然の効果に反することになる。先に述べたように、物は目からの遠い距離のために小さく見える。その距離は多量の大気を含み、それが濃い物体をなして光をさえぎり、物の細かな部分を見ることを妨げるのである。

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第307章 大気はなぜ地に近づくほど白く見えるべきなのか

大気は地に近いほど濃く、上昇するにつれて薄くなるので、太陽が東にあるときに南北の間の西を見れば、最も濃く最も低い大気が薄い大気より多くの光を太陽から受けることがわかるであろう。太陽の光線がより大きな抵抗に出会うからである。

空が平野の果ての低いところで終わるなら、地平線に最も近いその部分は濃い大気を通してのみ見られるので、本来の色を変え乱し、視線がその土の水蒸気に損なわれた粗い大気をそれほど多く通らない頭上より白く見える。しかし東を向くなら、大気は地に近づくほど暗くなる。濃い大気は太陽の光をそれほど自由に通さないからである。

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第308章 風景の遠い部分の描き方

大気がある部分では他の部分より濃く粗いことは明らかであり、特に地に最も近い部分はそうで、上昇するにつれて薄く透明になる。ある距離を置いて見る高く大きな物は、その下の部分があまり目立たない。それを認める視線は濃い大気の長い空間を通るからである。そして上の部分は次のような線によって見られることは容易に証明される。その線は目の側では濃い大気の中に発するが、物の最も高い頂へ上るにつれて、下の部分の大気よりはるかに薄い大気の中で終わるのである。それゆえその線すなわち視線は、目から進むほど、ある点から別の点へ進むにつれて薄く薄くなり、純粋な大気からさらに純粋な大気へと移っていく。したがって風景に山々を表す画家は、丘から丘へと、頂が常に麓より澄んで見えることを観察すべきである。互いの間の距離が大きいほど頂は澄み、高いほど形と色の多様性を示すであろう。

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第311章 濃い大気の中に見える建物について

第311章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

建物のうち濃い大気を通して見える部分は、より薄い大気を通して見える部分より不明瞭に見える。それゆえ塔A Dを見る目Nは、低い度の部分をより混然と、しかし同時により明るく見るであろう。そして他の度へ上るにつれて、より明瞭に、しかしいくらか暗く見えるであろう。

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第312章 濃い大気を通して見える町やその他の物について

第312章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

霧を通して、あるいは煙やその他の水蒸気で濃くなった大気を通して見える建物や町は、低いほど不明瞭に見える。逆に高くなるのに応じて、よりくっきりとして目に見える。第CCCXXI章で、大気は低いほど濃く、高いほど薄いと述べた。これは挿図によっても論証される。そこでは塔A Fが目Nによって濃い大気の中でBからFまで見られ、この部分は四つの度に分けられ、底に近いほど濃くなっている。目とその対象の間に入る大気の量が少ないほど、物の色がその大気の色にあずかることも少ない。したがって目と見られる物の間に入る大気の量が多いほど、この物はより多く大気の色にあずかることになる。これは次のように論証される。Nを塔A Fの五つの部分A B C D Eを見る目とすると、もし大気が同じ濃さであれば、塔の底における大気の色と、同じ塔が場所Bにおいてもつ大気の色との比は、線MとFの間の長さの比と同じであろう、と私は言う。しかし大気は等しい濃さではなく、反対に低いほど濃いと想定したので、大気が塔B C Fのさまざまな高さを染める比は、線の比を超えることになる。線M Fは線S Bより長いうえに、濃さの等しくない質の大気を不等な度で通るからである。

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第313章 遠い物の下端について

遠い物の下端は上端ほど目立たない。これは山や丘に認められるところで、その頂は後ろの別の山々の側面から切り離されて見える。これらの頂は麓よりも明確にはっきりと見える。上端はより暗く、下層に常にとどまって下の部分をかすんで混然と見せる濃い大気にあまり取り巻かれていないからである。木々や建物、その他の高い物についても同じである。この効果から、遠くに見える高い塔が上で太く下で細く見えることがしばしば起こる。上のほうの薄い大気は、塔の側面の角やその他のさまざまな部分が見えるのを、下の濃い大気のようには妨げないからである。これは第七命題によって論証される。そこには、目と太陽の間に入る濃い大気は上より下のほうが明るいとある。そして大気が白みがかっているところでは、高いところのように青みがかって薄い大気の場合よりも暗い物を乱す。要塞の胸壁はその間の空間が胸壁の幅に等しいが、それでも空間のほうが広く見える。遠い距離では胸壁は非常に小さく見え、さらに遠ざかるとまったく消えて、要塞は胸壁がないかのようにまっすぐな壁だけを示す。

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第314章 物が目から遠ざかるとき、どの部分が最初に消え、どの部分が見え方を保つか

最も小さな部分が、遠ざかることで最初に見え方を失う。これは球形の物体や円柱の上の光沢、動物の細い部分に認められる。たとえば鹿を見るとき、最初は脚や角を胴ほど早くは見つけられない。胴は幅が広いので、より遠い距離から認められるのである。しかし真っ先に消える部分は、四肢を描き、物体の面と形を限る線である。

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第315章 物はなぜ目から遠ざかるのに応じて見分けにくくなるのか

これは最も小さな部分が最初に失われるからである。大きさの点で第二の部分もややより遠い距離で失われ、以下順次同様である。諸部分が次第に溶け去ることで物の知覚は減じ、ついにはすべての部分と全体が視界から完全に失われる。色もまた、目と物の間に入る大気の濃さのために消える。

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第316章 顔はなぜ遠くでは暗く見えるのか

大きな物も小さな物も、目の前に置かれたすべての物の像が、目の虹彩を通してわれわれの感覚に知覚されることは明らかである。これほど小さな入口を通して空と地の広大さが入るのであれば、人の顔は(そのような大きな物に比べればほとんど無に等しく)距離によってさらに小さくなるので、目のごくわずかな部分しか占めず、ほとんど認められないものとなる。そのうえ、表面から内部の網膜、すなわち印象の生じるところまで暗い媒質を通らなければならないので、顔の色は(あまり強くなく、管の暗さによってさらに暗くされて)焦点に達すると暗く見える。この点について他に与えられる理由はない。ただ、目の玉の中央の点は黒く、大気のような透明な液体に満ちて、のぞき込むと黒く見える板の穴と同じ役目を果たすこと、そして明るい大気と暗い大気の両方を通して見られるものは混然と暗くなること、これだけである。

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第318章 霧の中に見える建物の高さについて

目に近い建物では、上の部分が下より混然と見える。目と頂の間には麓より多くの霧があるからである。そして遠くに霧を通して見える四角い塔は、頂より麓のほうが細く見える。これは第CCCXIII章で説明されている。そこには、霧は地面に近づくほど白く濃く見えるとある。また先に述べたように、暗い物はより白い背景の上に置かれるのに応じて小さく見える。それゆえ霧は上より下のほうが白いので、塔は(暗みがかっているので)頂より麓のほうが細く見えることになる。

第319章 霧が一様で濃さが等しくても、高い物が低い物より遠くで暗く見えるのはなぜか

第319章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

霧、濃い大気、水蒸気、煙の中にある物や遠くにある物のうち、最も高いものが最もはっきり見える。高さの等しい物のうちでは、最も濃い霧の中に置かれたものが最も混然として暗い。高さの等しい三つの塔A B Cを見る目Hの場合がそうである。目は頂CをRの低さまで濃さ二度の中に見るが、頂Bは一度だけの中に見る。それゆえ頂Cは塔Bの頂より暗く見えるであろう。

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第320章 霧の中に見える物について

霧を通して見える物は実際より大きく見える。空気遠近法が線遠近法と一致しないから、すなわち色が物の大きさと一致しないからである。そのような霧は、晴天のときに目と地平線の間に入る大気の濃さに似ている。しかしこの場合、霧は目に近く、物も近いのに、それを地平線ほど遠くにあるかのように見せる。地平線では大きな塔も目の近くに置かれた人より大きく見えないのである。

第322章 雑録

大きさ、形、影、目からの距離の等しいさまざまな物のうち、より明るい背景の上に置かれたものはより小さく見える。これは葉のない木の後ろに見える太陽を観察すれば例証される。その大きな光を背に見えるすべての枝分かれは非常に細くなり、ほとんど見えないままである。太陽と目の間に置かれた棒についても同じことが認められる。

霧を通して見える直立した平行な物体は、下より上のほうが太く見える。これは第九命題によって証明される。そこには、太陽の光線の貫く霧や濃い大気は、低いほど白く見えるとある。

遠くから見られるものは比例を失って見える。最も明るい部分は最も暗い部分より強い光線で自らの像を送るからである。私は、黒い服を着て頭に白いヴェールをかぶった女性を見たことがあるが、そのヴェールは黒に覆われた肩の二倍の大きさに見えた。

風景

第323章 遠くに見える物について

暗い物は、目からある距離へ遠ざかると明るく見える。反対の理由によって、暗い物は目に近づけるとさらに暗く見えることになる。それゆえ濃い大気の中に置かれたどの物の下の部分も、上より下のほうが目から遠く見える。そのために山の下の部分は、実際には最も遠いその頂より遠くに見えるのである。

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第324章 濃い大気を通して見える町について

見下ろして非常に濃い大気に沈む町を見る目は、建物の頂を下より暗く、しかしより明瞭に認めるであろう。頂は明るい背景を背にして切り離される。その向こうにある低く濃い大気を背にして見られるからである。これは前の章で説明したことの結果である。

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第325章 風景の描き方

風景の木々を半ば影に、半ば光の中にあるように工夫せよ。太陽が薄い雲に覆われたときのように表すのがよい。その場合、木々は空から全般的な光を受け、地に最も近い部分が最も暗くなるからである。

第326章 田園の緑について

田園に見られる緑のうち、木々やその他の植物の緑は、同じ質のものであっても野や牧草地の緑より暗く見える。

第328章 さまざまな方向から見た海の色

海は少し波立っているときには色が一様でない。岸から見る者には暗い色に見え、地平線に近づくほどその度合いが増す。また羊の群れのように面の上をゆっくり動くある種の光も認められる。陸から離れた船の上から海を見る者には青く見える。岸の近くでは暗みがかって見える。鏡のように水に反射された土の色のためである。しかし沖では、同じようにして大気の青が波によって目に反射されるのである。

第329章 同じ眺めがときによって大きく見えたり小さく見えたりするのはなぜか

田園の物は、ときに実際より大きく、ときに小さく見える。これは目と地平線の間に入る大気が、たまたま普段より濃かったり薄かったりすることによる。

目から等しい距離にある二つの地平線のうち、より濃い大気を通して見えるものはより遠く見え、他方はより薄い大気を通して見えるので近く見える。

大きさが等しくなく距離の等しい物は、それらと目の間にある大気が、それに比例して濃さの異なるものであれば、すなわち目と最も小さな物の間に最も濃い大気が入れば、等しく見える。これは色彩遠近法によって証明される。この遠近法はまことに欺きやすく、コンパスで測れば小さく見えるはずの山が目の近くの小さな丘より大きく見えるのである。目の近くに置いた指が遠くの大きな山を覆うのと同様である。

第330章 煙について

煙は、中央より波打つ端のほうが、より透明であるが、より暗い。

煙は、それを駆り立てる風の力に応じて、より斜めの方向に動く。

さまざまな種類の煙は、それを生じる原因がさまざまであるのに応じて色が異なる。

煙は決して明確な影を生じず、その端は第一の原因から遠ざかるにつれて失われる。その後ろの物は煙の濃さに応じて目立たなくなる。煙は発生源の近くでより白く、終わりのほうでより青い。

火は、目との間に入る煙が多いほど暗く見える。

煙がより遠くにあるところでは、物はそれによってあまり乱されない。

煙は霧のように風景全体をふさぎ、かすませる。煙はさまざまな場所から立ちのぼるのが見え、その発生源と最も濃い部分には炎がある。霧の中のように、山の頂は下の部分よりよく見える。

第332章 雲の切れ間を通る太陽の光線について

濃さも形もさまざまな雲の間の切れ間を貫く太陽の光線は、通るすべての場所を照らし、後ろのすべての暗い場所を自らの色に染める。その暗い場所は、光線と光線の間にのみ見られる。

第333章 雨の降り始めについて

雨が降りはじめると大気を曇らせて暗くし、鈍い色を与える。しかし雲に認められるように、一方の側ではなお太陽からかすかな光を受け、他方の側では影となる。ついには地も暗くし、太陽の光を完全に奪う。雨を通して見える物は混然として形が定まらないが、近いものはより明瞭である。注目すべきは、雨が影になっている側では、光を受けている側より物がよりはっきりと見分けられることである。影の側では物は主要な光を失うだけだが、他方の側では光も影も失い、光は雨の明るい部分と混じり、影もそれによって大いに弱められるからである。

第334章 季節を守るべきこと

秋には、その進み具合に応じて物を表せ。秋の初めには最も古い枝の葉だけが色あせはじめる。もっともその程度は植物が肥沃な土地にあるか痩せた土地にあるかによって異なる。そして(等しい距離にあっても)あらゆる種類の木を同じ質の緑で表す者たちを真似てはならない。牧草地、石、木の幹、その他すべての物の色をできるかぎり変えるよう努めよ。自然は無限の多様性に満ちているからである。

第335章 気候の違いを守るべきこと

海岸の近くや南の地方では、より内陸の地や北の国でするように、木々や野の様子によって冬の季節を表さないよう注意せよ。ただし、それらが一年中新たに芽吹く常緑樹に覆われている場合は別である。

第339章 水に見える地平線について

第六命題によって、地平線は目の向かいの側で、鏡のように水に見える。そして画家が水に覆われた場所を表さねばならないときは、その色は近くの物の色より明るくも暗くもなりえないことを忘れてはならない。

第340章 水面の上の橋の影について

橋の影は、水が透明で反射する性質を失い、濁って泥水となった場合でなければ、決して水面に見ることはできない。澄んだ水は表面が磨かれて滑らかなので、橋の像は鏡のようにその中に形づくられ、目と橋の間に位置するすべての点で等しい角をなして反射され、アーチの下には大気さえ見えるからである。水が泥で濁っているときには、こうしたことは起こりえない。もはや物を反射せず、埃っぽい道が受けるのと同じように橋の影を受けるのである。

第341章 画家は色彩遠近法をどのように実践すべきか

色の変化、減少、さらにはその本質そのものの完全な喪失を教えるこの遠近法を実践するには、田園で互いにおよそ六十五ヤード離れた地点、すなわち木々や人やその他の目立つ物を選ばなければならない。最初の木については、ガラスを取ってしっかりと固定し、目も固定して、それを通して見える木をガラスの上に最大限の正確さで描け。次にそれを少し脇へ寄せて実物の木と綿密に比較し、彩色せよ。形も色も原物に似て、片目を閉じれば両方が描かれたものに見え、同じ距離にあるように見えるようにする。定めた距離にある第二、第三の木にも同じ規則を当てはめることができる。これらの習作は判断力をもって扱えば、絵の遠景に必要なときに非常に役立つであろう。私は第二の木が、十三ヤードの距離で最初の木より五分の四小さいことを観察した。

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第342章 絵画のさまざまな教え

第342章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

不透明な物体の表面は、目とその物体の間に入る透明な媒質の色に、その媒質の濃さと占める空間に応じて、多かれ少なかれあずかる。

不透明な物体の輪郭線は、その物体が目から遠ざかるのに応じて目立たなくなる。

不透明な物体のうち、それに影を落とす物体や光を与える物体に最も近い部分が、最も影になり、あるいは最も明るくなる。

不透明な物体の表面は、光を与える物体の色に、後者の遠さや強さに応じて多かれ少なかれあずかる。

光と影の間に見える物は、すっかり光の中にある物や、すっかり影の中にある物より大きな立体感をもつように見える。

遠くに見える物に強さと明確さを与えると、非常に近くにあるように見える。距離の正しい観念を与えるように模倣するよう努めよ。自然の中で物の輪郭線が混然と見えるなら、絵の中でも同じようにせよ。

遠い物の輪郭線が不定で混然と見えるのには二つの理由がある。第一は、それらが非常に小さな角度で目に達し、そのため非常に小さくなって、爪や昆虫やその他同様のものなど、近くてもほとんど見分けられない小さな物と同じ程度にしか視覚に作用しないことである。第二は、目と遠い物の間に非常に多くの大気が入って濃くなり、それがヴェールのように影を自らの白さで染め、暗い色から黒と白の間の別の色、すなわち青へと変えることである。

遠い距離のために多くのものの見え方は失われるが、太陽から光を受けるものはより見分けやすく、残りは混然とした影に包まれたままである。そして地面の近くでは大気が濃いので、低いものは混然と見え、その逆もまた然りである。

太陽が地平線の雲を赤く染めるとき、距離のために青みがかって見える物はその赤さにあずかり、青と赤の混合を生じて、眺めを生き生きと快いものにする。その光を受ける不透明な物体はすべて明瞭に、赤みがかった色に見える。そして大気は透明であるからそれに満たされ、百合の色に見える。

日の出や日の入りのときに地と太陽の間にある大気は、他のどこの大気よりも、それが取り巻く物を常にかすませる。より白いからである。

別の物の上に置かれた物の輪郭線を強く記す必要はない。それはおのずと切り離されるはずである。

白く曲がった面の輪郭線すなわち端が別の白い物体の上で終わるなら、その端には光のどの部分より暗い影がある。しかし暗い物に対してなら、その輪郭線すなわち端は光のどの部分より明るくなる。

色の最も異なる物は、互いに最も切り離されて見える。

物の部分のうち遠景で最初に消えるのは、色が似ていて互いの上で終わる端である。樫の木の端が、それに似た別の樫の木の上で終わるのがその例である。より遠い距離で次に消えるのは、木々、耕された畑、壁、瓦礫や石の山のように、互いの上で終わる混じった色の物である。物体の端のうち最後に消えるのは、明るくて暗い背景の上で終わるもの、あるいは暗くて明るい背景の上で終わるものである。

目より上に等しい高さで置かれた物のうち、目から最も遠いものが最も低く見える。そして目より下に置かれているなら、目に最も近いものが最も低く見える。側面に置かれた平行線は一点に集まる。

風景の遠景で川や湖の近くにある物は、それらから離れた物より目立たず、明瞭でもない。

等しい濃さの物体のうち、目に最も近いものが最も薄く、最も遠いものが最も濃く見える。

大きな眼球は小さな眼球より物を大きく見る。これは針穴を通して天体を見ることで試すことができる。針穴はその光の一部しか通さないので、天体は、針穴が物の通常の見かけの大きさより小さいのと同じ割合で、小さくなって大きさを失うように見える。

目と物の間に入る濃い大気は、その物の輪郭線を不定で混然とさせ、実際より大きく見せる。線遠近法が物を目に運ぶ角度を減じないからである。空気遠近法はそれをより遠くへ運ぶので、一方は目から遠ざけ、他方はその大きさを保つのである。

太陽が西にあるとき、地の水蒸気は再び落ちて大気を濃くし、太陽に照らされない物は暗く混然としたままであるが、その光を受ける物は地平線上の太陽の様子に応じて黄や赤に染まる。また、その光を受ける物は非常に明瞭であり、特に町や村の公共の建物や家々はそうである。その影が暗く、はっきり見える部分が混然として不定な土台から出てくるかのように見えるからである。そのときには太陽に照らされたもののほか、すべてが同じ一つの色だからである。

太陽から光を受ける物は全般的な光も受けるので、二種類の影が生じる。二つのうち最も暗いのは、その中心線がたまたま太陽の中心へ向かっているものである。一次の光と二次の光の中心線は、一次の影と二次の影の中心線と同じである。

夕日は、町や村のすべての大きな建物と田園の高い木々の梢をその色に染めるとき、美しく壮麗なものである。下のものはすべて混然として、柔らかな全体の塊の中にほとんど失われている。大気だけに照らされるので影と光の差が小さく、そのためあまり切り離されて見えないのである。しかし高いものは太陽の光線に触れ、先に述べたようにその色に染まる。それゆえ画家は太陽を描いたのと同じ色を取り、作品のうちその光を受けるすべての部分に用いるべきである。

また目の位置によっては、離れた雲から影を受けていないのに、ある雲が暗く見えることも非常にしばしば起こる。目は一方の雲の影の部分だけを見るが、他方の雲の明るい部分と影の部分の両方を見るからである。

等しい高さにある二つの物のうち、最も遠いものが最も低く見える。挿図の第一の雲を見よ。第二の雲より低いのに、より高いかのように見える。これは低い雲の角錐状の光線のM Aにおける切断と、(より高い)第二の雲のM Aの下のN Mにおける切断によって論証される。これは日没や日の出の太陽の光線のために、暗い雲が明るい別の雲より高く見えるときにも起こる。

第343章 風景の輝き

風景の色の生気と明るさは、太陽に照らされた自然の風景とは決して比較にならない。ただし絵を太陽そのものから同じ光を受けるように置く場合は別である。

雑録

第344章 描かれた物は、等しい角度で目に達しても、なぜ実物ほど遠くには見えないのか

第344章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

板B Cに見かけの距離一マイルの家を描き、そのそばに実際の距離一マイルの実物の家が認められるとする。そしてこれらの物は、板すなわち絵A Cが同じ角度の開きで角錐状の光線を切るように配置されているとする。それでもこの二つの物は、両目で見るなら決して同じ大きさにも同じ距離にも見えない。

第345章 二十ブラッチャの空間に、均整のとれた四肢をもち四十ブラッチャの高さに見える、足で立つ人物の描き方

第345章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

この場合も他の場合と同様に、画家はどのような面に描くのかを気にする必要はない。特に絵が窓やその他の開口部のような定まった点から見られるときはそうである。目は壁の平らさや粗さに注意するのではなく、風景その他、壁の向こうにあるものとして表されたものだけに注意するからである。とはいえF R Gのような曲面が最もよい。角がないからである。

関連する箇所(英語のページ):

第346章 十二ブラッチャの高さの壁に二十四ブラッチャの高さの人物を描く方法(図版XXII)

第346章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

壁の部分M Nに表そうとする人物の半分を描き、もう半分をその上の曲面M Rに描け。しかしその前に、平らな板か紙の上に、描く面と同じ形と寸法で、壁と曲面の断面を描いておく必要がある。次にそのそばに、望みの大きさで人物の側面も描け。すべての線を点Fへ引き、それらが断面M Rと交わるところに、実際の場所に描くべき人物の寸法が得られる。壁のまっすぐな部分M Nでは、垂直に遠ざかることがおのずと人物を縮小するので、固有の形になることがわかるであろう。しかし曲面に来る部分は素描の上で縮小される。全体は後で、M Nに似た実際の場所に写さなければならない。これはよく確かな方法である。

関連する箇所(英語のページ):

第347章 顔を測り、同じ大きさに描くと、なぜ実物より大きく見えるのか

第347章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

A Bは空間すなわち頭の幅であり、頬のある距離C Fのところで紙の上に置かれている。それはA Cの全長だけ後ろへ下がらねばならず、そうするとこめかみは線A F、B Fの距離O Rへ運ばれることになる。こうして差C OとR Dが生じる。したがって線C Fと線D Fは、短くなるためには、全高の描かれた紙、すなわち真の大きさのある線F AとF Bを探しに行かねばならない。そしてこうして、私が述べたようにC OとR Dの差が生じるのである。

関連する箇所(英語のページ):

第348章 自然の最も完全な模倣が、なぜ自然そのものと同じ立体感をもつように見えないのか

第348章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

自然を両目で見るなら、線も光も影も色も完全に模倣したとしても、同じ立体感をもって見えるように絵の上に模倣することは不可能である。これは次のように証明される。両目A Bが、二つの中心視線A CとB Cの集まりによって物Cを見るとする。これらの中心の光線を含む視角の辺は、物Cの後ろの空間G Dを見る、と私は言う。目Aは空間F Dのすべてを見、目Bは空間G Eのすべてを見る。それゆえ両目は物Cの後ろの空間F Eのすべてを見る。そのため物Cは、後ろに何も隠されないという透明な物体の定義に従って、いわば透明なものとなるのである。物が目より大きいならば、片目だけで見るときにはこれは起こりえない。述べてきたことすべてから結論できるのは、描かれた物は背後の空間のすべてを占めるので、自らの周囲によって完全に覆う背景のどの部分も見る手立てを残さないということである。

第349章 絵画の万能性、ある教え

画家は、術のあらゆる種類を等しく愛するのでなければ、術における万能を目指しているとは言えない。たとえば風景だけを喜ぶなら、それは単なる探究としか評価されず、われらの友ボッティチェッリが言うように、むなしい研究にすぎない。さまざまな色をしみ込ませた海綿を壁に投げつければ、風景のように見えるいくつかの斑点がそこに残るからである。こうした斑点には、それを眺める心の持ち方に応じて、人の頭、さまざまな動物、戦闘、岩場、海、雲、森など、さまざまな構図が見られることも確かである。これは鐘の音にたとえられる。鐘の音は、想像しようと思うとおりのことを言っているように聞こえるのである。同じようにこうした斑点は構図の手がかりを与えはするが、ある部分をどのように仕上げるかは教えてくれない。そしてその模倣者たちはつまらない風景画家にすぎない。

第350章 鏡はどのように画家の真の師であるか

自分の絵が表そうとする物に似ているかどうかを知りたければ、平らな鏡を用意し、模倣した物を映すように置いて、原物と写しを注意深く比較せよ。平らな鏡の上には、実在するように見える物の像が見える。絵画も同じである。どちらも平らな面であり、どちらもその面の向こうにある何かの観念を与える。鏡が線と影によって物の像を実在するかのように与えることを確信しているのであれば、さまざまな光と影において鏡のそれより強い色をもつ君は、規則を判断力をもって用いるなら、鏡の中で賛嘆するのと同じ自然の外観を絵に与えられるに違いない。いやむしろ、君の絵は大きな鏡に見られる自然そのもののようになるであろう。

この鏡は(君の師であるから)、いかなる物についてもその光と影を示してくれる。君の色の中には、モデルの最も明るい部分より明るいものもあり、最も強い影より暗いものもある。そこから、片目だけで見たときに鏡に見える自然を表すべきであることになる。両目は、特に物が小さいとき、物を取り巻きすぎるからである。

関連する箇所(英語のページ):

第351章 どの絵画を最もよいものと評価すべきか

模倣しようとするものに最もよく一致する絵画が、最も賞賛に値する。この種の比較は、自然の作品を改善できると自負するある種の画家たちをしばしば恥じ入らせる。たとえば彼らは生後十二か月の子どもを表すと称して、高さを頭八つ分とするが、自然はその最良の比例において五つ分しか認めない。また頭に等しい肩幅を二倍にし、一歳の子どもに三十歳の男の比例を与える。彼らはこうした誤りをあまりにしばしば行い、他の者が行うのを見てきたので、それを習慣に変えてしまった。それは彼らの損なわれた判断に深く根を下ろし、自然とその模倣者こそが自分たちのやり方に従わないのは誤りだと信じ込むほどなのである。

関連する箇所(英語のページ):

第352章 画家の作品について下すべき判断について

第一に考えるべきは、人物がそれぞれの位置と置かれた光に応じて、固有の立体感をもっているかどうかである。また群れの端の影が中央の影と同じでないことである。影に囲まれていることと、一方の側だけ影になっていることとは、大いに異なる効果を生むからである。中央の群れは、それと光の間にある他の人物の影に囲まれている。端の群れは一方の側にだけ影をもち、他方の側に光を受ける。影の最も強く鋭い筆致は、主要な群れの人物の間の、光の入り込めない隙間に置くべきである。

第二に、人物の順序と配置によって、それらが主題と問題の物語の真の表現とに適合して見えることである。

第三に、人物が彼らを集めた機会に生き生きと応じて見え、その姿勢にふさわしい表情をもつことである。

関連する箇所(英語のページ):

第353章 想像上の動物を自然に見せる方法

四肢を与えずに動物を考案することは不可能であり、その四肢は個々に何か既知の動物のそれに似ていなければならないことは明らかである。

それゆえ、キマイラすなわち想像上の動物(たとえば蛇としよう)を自然に見せたいなら、マスチフの頭、猫の目、ヤマアラシの耳、野兎の口、獅子の眉、老いた雄鶏のこめかみ、海亀の首を取るがよい。

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第354章 画家は互いに模倣すべきでないこと

画家は決して他の画家の手法を模倣すべきではない。そうすれば自然の子ではなく孫と呼ばれることになるからである。あらゆることを自然から学んだ他の師たちの作品に頼るよりも、これほど豊かな物に満ちた自然に頼るほうが常によい。

第355章 自分の作品の判断の仕方

他人の作品の誤りを自分の作品の誤りより容易に認めるのは、周知の事実である。それゆえ画家は遠近法をよく学び、人体の寸法の完全な知識を得なければならない。また少なくとも建物の外形とそのさまざまな部分に関するかぎり、よい建築家でもあるべきである。そして足りないところは、自然から素描をとることを怠ってはならない。

描くときにそばに鏡を置き、しばしば作品をその中に見るのもよい。逆向きに見えるので他人の作品のように見え、欠点がよりよくわかるであろう。また、しばしば作品を離れていくらかの気晴らしをとるのも有益である。戻ったときに判断がより澄むからである。あまりに根を詰めて座り続けることは、ときに多くのひどい誤りの原因となる。

第356章 発見した誤りを正すことについて

自らの判断の働きによって、あるいは他人の観察によって作品に誤りを発見したら、ただちにそれを正しにかかることを忘れてはならない。作品を公衆にさらすことで欠点までもさらすことがないようにである。自らの評判を取り戻せるとか、次の作品でこの恥ずべき怠慢の埋め合わせをしようとか自分に言い聞かせて、言い訳を許してはならない。作品は音楽の響きのように手を離れてすぐに消えるのではなく、君の無知の不朽の記念碑として残るからである。生活の必要と闘わねばならず、大画家となるのに必要な研究の時間がないと言い訳するなら、責められるべきは君自身である。すぐれたものの研究は心身両方の糧だからである。大きな富のもとに生まれながら、探究を妨げられないためにそれを手放した哲学者がどれほどいることか。

第357章 絵を見るのに最もよい場所

第357章の図(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

A BをDから光を受ける絵と想定しよう。CとEの間に身を置く者は、絵を非常に見づらいであろう、と私は言う。特に油で描かれていたりワニスがかけられていたりすればそうである。光って、ほとんど鏡の性質を帯びて見えるからである。こうした理由で、Cに近づくほど見えにくくなる。窓からの光が絵に当たり、その反射がこの点へ送られるからである。しかしE Dの間に身を置くなら、都合よく絵を見ることができ、点Dに近づくほどいっそうそうである。その場所は反射した光線に当たりにくいからである。

第358章 判断について

自分の作品を判定するとき、自分の判断ほどわれわれを欺きやすいものはない。友人たちの意見を聞くよりも、敵に欠点を指摘してもらうほうが得るところが多い。友人はあまりに自分に似ていて、自分の判断と同じほどわれわれを欺くことがあるからである。

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第359章 画家が切に望む仕事について

そして大いなる実践を望む画家である君よ、理解せよ。それを自然というよい土台の上に据えないなら、君はほとんど名誉もなく、さらに少ない利益のために働くことになる。よい土台の上に据えるなら、君の作品は多くまたよいものとなり、大いなる名誉と利益をもたらすであろう。

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第360章 画家への助言

画家は普遍的な自然を研究し、見るものすべてについて自らの内で大いに推論し、目の前のあらゆる物の種類を構成する最もすぐれた部分を用いるべきである。この方法によって彼の心は、前に置かれたあらゆる物を忠実に映す鏡のようになり、いわば第二の自然となるであろう。

第361章 彫刻について

大理石で人物を制作するには、まず粘土か石膏で原型をつくらねばならない。それが完成したら四角い箱の中に置く。この箱は、それに似せて形づくる大理石の塊も同じように入れられるものとする。側面と箱のまわり一面に開けた穴に通す、釘のような棒を何本か用意せよ。それぞれが原型に触れるまで押し込み、棒の外に残った部分をインクで記し、各棒とその穴に合印をつけて、望むときに元に戻せるようにする。次に原型を取り出してその代わりに大理石の塊を置き、すべての釘が同じ穴を通って記した印まで入るまで、塊を削り取れ。作業を容易にするため、枠の各部分が別々にも全体でも持ち上げられるように工夫せよ。ただし底は大理石の下に残しておかなければならない。この方法によって、きわめて容易に大理石を削ることができる。

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第363章 画家への教え

自分の力量を少しも疑わない画家は、ごくわずかにしか達しない。作品が判断を超えて成功するとき、その芸術家は何も得ない。しかし判断が作品にまさるとき、利欲がその進歩を妨げないかぎり、絶えず進歩してやまない。

第364章 画家の判断について

作品が画家の知識と判断に等しいときは悪いしるしである。作品が判断を超えるときはなお悪く、うまくいったことに驚く者がそうである。しかし判断が作品を超えるときは、まったくよいしるしである。そのまれな素質をもつ若い画家は、疑いなく大いなる完成に達するであろう。作品の数は少ないが、すべての見る者の賛嘆を集めるものとなるであろう。